蚯蚓

図書館の外に出ると、私にとっては傘を指すに値しない程の雨が降っていた。雨女である私は、その雨を気にせずポケットに手を突っ込んでなんの表情もなく歩き出す。少し猫背気味で無表情で歩く私を見た周りの人は、私の機嫌は悪いのだと判断するだろう。いつもそうだ。機嫌が悪い、怒っている、そんなふうに思われ、私は交流を図る場において人から声をかけられる事が少ない。けれど私は別に機嫌も悪くなければ怒ってもいない、がそんなこといちいち説明するのもめんどくさい。私は周りからどう思われているかなんて気にしないたちで、その性分のお陰で結構気楽に生きてこれた。
雲の隙間からは日差しが見えた、けれどどこか遠くで雷が落ちた。ガラガラガッシャンと音が聞こえて思わず私は肩をすくめる。けれどどうやら雷の音に驚いたのは私だけのようだった。私にしか聞こえていないのか?そんな風にも思えるほど周りは平然としている。
私はそんな変な空模様を見るのが嫌になって下をみると足元にミミズが1匹干からびて伸びているのを見つけた。私は歩みを止めて靴のつま先でミミズにチョンチョンと触れた。すると若干ミミズは動いたように思えた。きっと昨日までの晴天と真夏の熱さで死にそうになっているのだろう。このミミズにとって今の雨はまさに恵の雨なのだ。私はそう思いながら思い切り母趾球でミミズを踏み潰し、コンクリートにこすりつけた。するとそんな私の行いにお天道様が怒るかのようにまた雷が大きな音を立ててどこかに落ちた。私はもうその音に驚かなかった。ただ背後から聞こえる大きな音を光と共に浴び、殺めたミミズを放置して私はまた不貞腐れたような態度で歩き始めた。今落ちた雷が私への制裁のつもりなら、お天道様は随分とあほのようだ。今落ちた雷が誰かの不幸になっていないことを私は願う。
歩きながら左を見ると和菓子屋の窓ガラスに自分が映っていた。暑さのせいで売れていない、甘ったるい和菓子を目を細めて見る、私のふてぶてしい態度は、きっと和菓子屋で働く人間に不快感を与える態度だろう。一瞬和菓子屋の店員と目が合いそうになるが私は和菓子屋から目を離す。私は歩くのが遅いらしい、どんどん後ろから歩いてきた他人に抜かされていく。
たいして胸もない貧相な体に下着を装着しその上にレースを羽織っただけの女が、すれ違いざまに私を見た。彼女は何を思ったのだろうか。一人でただ無表情で歩く私を可哀そうだとでも思ったのだろうか。夏場であろうが冷えそうになっている彼女のおなかの方がよっぽど可哀そうだ。
こんなにひねくれている私だが、私は常に恵まれていた。親の愛情を人並み以上に受けて育ち、良い人間と交流を持っていた。18歳になり多くの人と出会ってきたが、私ほど親に愛されている人には未だ会ったことがない。それに私は生まれてから今まで後悔というものをしたことが無い。それは私が失敗をしない素晴らしい人間という事ではなく、高い自己肯定感のお陰だろう。自分の行動が例え間違っていたとしても自分の人生の糧になったと思うから、私はどんな経験も無駄なことではないのだと信じている。大学に友達が一人もいない自分も、こんなポエムじみた小説を書く自分も恥じたことなどなかった。成功体験を与えて自己肯定感を高めてくれた両親には感謝しかない。少しは落ち込めよと思うほど私は他人に何を言われても気にしない。これも勘違いな自己肯定感のおかげだろう。私は自分が可愛くて仕方がないのだ。おかげでとても生きやすい。
そんな私を好きだと言った人は、過去に数名いた。ポケットに手を入れて不貞腐れたような態度をとる私を好きだと言った人もいれば、機嫌が良いので口角を上げている私を好きだと言った人もいた。思春期に良くいる自分の多面性を認めないアホとは違い、私は自分が気分屋であることは重々承知であったし、どの自分も嘘偽りのない姿だと知っていた。私はどの人からの好意も否定したことは無かった。一度だけ告白を断ったことはあったが、その後断ったことを凄く気持ち悪く感じ、また告白させるように仕向けたこともあった。私は自分の嫌なことはしない人間なので、数回の他人からの好意に答えたことはその時の自分にとってベストな対応だったと思っていた。しかし私は文章を書く人間だ。文章を書く人間はきっと根っからの嘘つきばかりだと私は思っている。当たり前だ、常日頃自分の中に異世界を作っているのだから。けれど嘘つきと言っては少々語弊が生じる気がする。パフォーマーと言った方がきっと適切だろう。
パフォーマーは相手の求めていることが手に取るように分かる。私というパフォーマーは相手によい気分を与えることが楽しくて仕方ないのだ。良く言えば人たらし、はっきり言えば相手を喜ばせたと思い込み快感に浸る勘違い野郎だ。
しかし私は哀れなことに気分屋だった。それ故自分にとって楽しいことが変わることがあった。急に相手を断ち切りたくなり、自分が相手の大切なものであることが許せなくなる。パフォーマーである自分とパフォーマーであることを貫けない自分の優柔不断さを知っているから、相手から離れたくて仕方なくなる。相手が私に振られることで少しでもみじめな気分になることがたまらなく、私の脳みそを痺れさせゾクゾクさせる。けれど私が相手を断ち切ることで相手が不快に思うことにやけに罪悪感を覚えるのであった。
私はきっと恋なんてしたことはなかったのだろう。だから一度だけ、私はある形で裏切られたことがあったがそれはきっと罰が当たったのだ、と私は納得し別れを告げた。こんな恋愛もどきをも私は一度も後悔はしていなかった。それだけ私は冷酷な人間だ。もしかしたらこんな自分のことを好きになる、見る目のない恋人たちを私は心のどこかで馬鹿にしていたかもしれない。
けれどそんな私が、18歳できっと初めて恋に落ちた。初めて相手に好意を示される前に相手を好きだと感じ、初めて相手の言葉を大切に胸にしまうようになった。初めて一緒に生きたいと思い、初めて誰かを守りたいと思った。初めてたった一つの呼吸をも彼が生きている証だと愛おしく思い、初めて緩んで締まりのないはずの寝顔に何とも表現できない可愛さを覚え、そんな彼に初めて全てを捧げたいと思った。初めて彼に自分の人生をごちゃごちゃにされたいと思い、初めて自分以外の人間を自分の心に置きたいと思った。パフォーマーであるにも関わらず口下手で、今まで恋人に直接好きなんて伝えたことがなかった私が初めて、彼に出会って三日で彼に好きだと漏らした。
そして恋心を実感した私は、彼の前でパフォーマーで居ることが出来なくなった。彼の求めることが全く分からなくなった、というより彼の求めていることが何なのか考えなくなった。それは彼が自分のしたいこと以外をする人間ではないと信じられたから、私はパフォーマーである必要がなくなったからあろう。
そして恋や愛を知った私は途端に怖くなった。今まで何が起きても変わらない親の暖かい愛の元でぬくぬく育ってきた私という少女は、いつかは変わってしまうかもしれない彼の愛情で、少女ではなくなった。かといって女になったわけではなかった。少女でも女でもない中途半端な私は、彼の心がいつかは変わってしまうのだという疑心暗鬼を高め、それとは裏腹に彼への愛情は私のキャパを超えて日々高まっていく。
私は彼からいつか別れを切り出されることを別に恐れてなどはいなかった。私にとって彼の幸せが一番だから、彼の幸せを想えば私がそばに居られないことぐらいどうでもよかった。けれど彼のそばにいつまでも居座りたい傲慢な自分も心のどこかには居た。
例え恋をしようと私の根底は変わらない。他人の評価なんてどうでもよく、彼の幸せを願う私も、自分の幸せを願う私もどちらも自己中心的な人間だったのだ。
自分のキャパを超える私の彼への愛情は、冷めることなく心に積もりたまに発散したくなる。けれど私はその愛情を静かにどこか遠くへ葬り去り、忘れ去る。きっと女というのは男が自分に向けてくれる愛情に見合った愛情を産み出しうまく相手に吐き出すことが出来るのだろう。それが出来ない私は女でも、かといってもう少女でもないのだ。彼にとってはきっと重いであろう私のこの愛に私は背を向ける。背を向けられた私の愛は私の背中に抱きついて私に暖かさをくれた。彼への愛のはずなのにそれは私を支えている。そんな自分の内情の変化に気が付かないふりをして、私は何も心境の変化がないように今まで通り不貞腐れたように生きている。そうでもせずに真正面から向かい合ってしまったら、私は自分の愛に負けて押しつぶされとてつもなく不幸なことに幸せになってしまう気がした。
こんなに盛大に話したがこの話にオチはない。それは彼とはまだ日が浅くこれからどうなるのかなんて分からないからだ。さっきも述べた通り私はただ彼の幸せを願っている。例え彼と生きることが出来なくても私には彼が生きていてくれるだけで充分なのだ。先の未来を案じて疑心暗鬼になる自分に言い聞かせるのはただ一つ、もし彼が本当に私の人生に必要で、彼の人生に私が少しでも必要なら私と彼は一緒に生きられるはずだ、ということだ。
そんな今の所甘い汁しか吸っていない私がこれから書く小説は自分の胡散臭さをフル活用した創作で、忘れないでいただきたいのは私がパフォーマーであることだ。
10年後にこの文章を見返した時、私が彼とどうなっているのか、そんなことは知らない。願うのはこの小説を慈しみ過去の自分を笑って可愛がれるほど、10年後の私と彼が幸せであることだ。

蚯蚓
小さな蚯蚓腫れが、左手の薬指にできていた。何も考えずに動かしていた自分の手を見て、私は思わず口角をあげる。何故ならこの蚯蚓腫れは私の最愛の彼が付けてくれた傷だから。けれど彼はそんな私の心境を知らない。こんな傷をつけたことだって、きっと覚えていない。今日はどこの女とヤッてくるのかな、私は自分の蚯蚓腫れに軽く口付けをしてまた仕事に戻る。キーボードを打つ手は止まらないけれど、頭はもうかなり前に思考停止していた。
彼の浮気癖を知ったのはいつだっけ?
それすらも覚えていない。私は何番目の女なの?私は彼が自分の浮気がばれていないと思い込んでいる時に、冗談半分でそんな問いを彼にしたことがあった。ベッドの上で彼に聞いた時、彼は煙草を吸っていた。煙草の先っちょが少し照って、彼の身体には丁度今多くの有害物質が入り込んでいるんだな、なんて私は冷静に情景を捕えていた。彼はふーっと煙を吐いた。そしてにっこりとし私を見て私の手の甲にそっと触れた。私は無表情で彼の顔を見続ける。きっと普通の女なら彼の笑顔に思わずつられて笑顔になってしまうのであろう。けれど少しも笑顔を返さない私の様子を見て彼は笑顔をやめた。その眼差しの冷たさに私は、今まで気づかないふりをしていた彼の本性を見てしまった様な気がした。彼は私の手を思い切り握りしめ、煙草を私の手の甲に押しつけた。熱さのあまり私は無言で少しだけ顔を歪めた。
「ほらな」
彼は私の手をいきなり離した。急に彼から離され、私の手は布団の上に落ちた。
「お前はくそつまらねえ」
彼はまた煙草を吸った。そしてため息と一緒に煙を吐いた。
「反応が薄いんだよ。女なら演技ぐらいしろよ。」
彼は煙草を灰皿に押しつけるとベッドから立ちシャワーへと向かった。私は茫然と彼を目で追った。
風呂場から漏れるシャワーの音に私は興味を無くし、彼が負わせた火傷を見た。外気の少しの刺激でさえ若干ひりひりするこの火傷が、私にとっては彼から貰った初めての形の残るものだった。水ぶくれになった火傷に私は触れた。矢が貫通するかのような刺激が私の身体に走る。その刺激で今まで眠っていた私の涙腺が、目覚めてしまったような気がした。
男に愛され幸せになれる女は、男にとっていいタイミングで泣けて笑えて、いい反応が出来る女なのだろう。演技だろうと自分の気持ちに少々嘘をついていたってそれが自分にとっての真実なのだと言い聞かせ耐えられる女がいい女。私はそれが出来ない。彼が何を求めてどんな反応をすべきなのか、ちっともわからない。私は彼から見れば感情のない思いのままにできる人形だ。彼は私から見れば謎で不可解で、なぜ生きているのか分からない可愛らしい生き物だった。

風の噂で、ある同級生が出来婚したのを聞いた。女側の策略的な妊娠だと言う話で、そのことを語る人は皆、その女をどこか馬鹿にしたような口調で話をしていた。それの一体どこが悪いのだろう。それで結婚まで行きつくのだから、なんて素晴らしい愛なのだろう。
私がもし妊娠しても、彼はきっと私と結婚なんてしないだろう。むしろ彼は私を遠ざける。彼と付き合ってから飲み始めた避妊薬はいつまで経っても私に吐き気を与え続ける。一体いくつの産まれくる生命の可能性を私は奪ったのだろう。きっとこの吐き気はその報いだ。
女にとって快楽の大切さは生命を慈しむ気持ちに比べてとてつもなく薄い。けれど男にとっての生命を慈しむ気持ちは快楽の大切さに比べてとてつもなく薄い。性欲によって優しさを身に着けた男はきっとこの世で一番残酷な生き物だ。
私は少しでも彼の隣に居れるように彼の性欲を利用した。性欲を解消する道具に成り下がれるほどに私は彼が好きだった。
「お前は俺に捨てられたくないんだよ」
「お前は俺が居なきゃ生きていけない」
「お前は俺がそばに居れば何もいらないはずだ」
不思議と彼にそう言われるとそんな気がしてならない。彼は私の事なんて全てお見通しだった。
彼にとって私は、屍のようなものだろう。
彼は自分を吐き出し果てた後、私をごみを見るような目で見る。捨てて拾ってを繰り返し、都合のいい時だけ呼び出して、私のそばにいてくれたことなんて彼は殆どない。
死にたいな、私はそんな言葉を漏らしたことが一度だけあった。
「殺してあげようか?」
彼は私に言った。
「殺す罪を被れるほど、私を愛してないでしょ。」
私のその言葉で彼は舌打ちをした。
嘘でもいいから愛しているとか言えよ、なんて私は思った。
嘘偽りなんて要らない、そんな言葉は恵まれた人間にしか言えない。嘘だろうと性欲に塗れていようと私は彼に執着していたかった。私は彼に自分の存在を認めてもらいたかった。触れられたくて刺激されたくて、ハラハラさせられてくてドキドキさせられたくて堪らない。そうじゃないと私は生きている心地がしないのだった。私に生きている実感を与えてくれるのは彼だけだった。だってこの世で私が好きなのは彼だけなのだから。私は彼に依存していた。かといって彼が浮気することに関して私は全く興味がなかった。ほかの女がそばに居ようと誰とやろうと私には関係がない。私と彼の関係が切れなければ私は何でも良かった。
ある日急に彼から電話がかかってきた。今晩の誘いだろうか、けれど彼の連絡はいつもLINEの『今晩行く』だけだった。電話なんて珍しい、私は少し踊る心を実感し、けれどどうせろくなことではないんだと自分に言いきかせ電話に出た。
『出るの遅い』
少し不機嫌そうな声で彼は言った。そんないじけた声も可愛いと思ってしまう私は感性がバグっているのだろう。
『どうしたの?』
『お前さ、熱とかない?』
私の言葉に被せて彼は言った。私は自分の額に手を当てる。若干暖かい。そう言えば今日は朝から節々がだるいし、頭も痛い。生理前だからだろうと私は思っていた。
『あるかも』
私のその答えに彼は舌打ちをした。
『やっぱお前じゃん、どっから貰ってきたの?風俗とか?』
私は彼に何を言われているのかてんで分からずしばらく無言だった。
『聞いてる?』
彼は言った。
『さっきから何言っているの?』
私は彼に聞いた。
『お前にクラミジアうつされたんだよ、こっちはもう病院行って薬貰ったけど。痛くて仕方ないわ。』
私は彼以外と性行為なんてしない。だから明らかに私から彼にうつしたなど考えられない。
『私じゃないわ』
さんざん愚痴っていた彼の言葉が止まった。
『は?』
『私、貴方としかしてないわ。』
『ええ?』
彼は変な声を出し一瞬沈黙すると何かを悟ったかのように急に思い切り笑った。
『何がそんなにおかしいの?』
私の問いにも答えず彼の笑い声は一向に収まらない。
『お前、性欲満たすために俺と付き合っているのかと思ったら違うんだな。』
彼は笑いながら言った。
『お前、俺のこと好きなんだな。』
彼は電話口できっとおなかを抱えて笑っている。
『何がそんなにおかしいの?』
私は二度も同じ問いを彼にした。彼の言っていることがわからない、分かりたくもない。
『ごめんごめん』
彼はようやく笑い声を納めた。若干まだ漏れてはいるが。
『お前が俺の浮気を許しているのは、自分も浮気しているからだと思っていたんだよ。けどお前は浮気なんてせずに一途に俺のことが好きなんだって思ったらさ・・・』
彼はまた声を震わせ始める。
『おめえ馬鹿だよなぁ。』
彼の言葉が、笑い声が私の頭にこだまする。
―違う、私はただ貴方にしか興味がないだけ、勘違いしないで。笑いものなんかにしないで。
―どこが勘違い?彼の言っていることは全部当たっているじゃない。
―私は浮気する彼を一途に好いている馬鹿者よ?
彼の笑い声は一向に収まらない。
私は彼に、自分と一緒でただ性欲を満たすために生きているのだと思われていたんだ。
身体が熱い。きっと熱のせい。この苦しい心も震える手も、内蔵全てを吐き出してしまいそうな吐き気もあふれる涙も全部、クラミジアのせい。彼から貰ったクラミジアのせい。
いつの間にか電話は切れていた。
彼からのLINEには早く直せとただ一言書いてあった。
―早くやらせろの間違えじゃないの?
私は既読したまま返信しなかった。
何度か彼からLINEが来ていた。
大丈夫?治りそう?金なら出すよ?好きだよ?
クエスチョンマークを付けられると、返答しない私に罪悪感が与えられることを彼は知っているのだろうか。
結局私は二週間後ただ一言、治りました。そう彼に返答してしまった。
I love you そんなスタンプが彼から送られてきた。昔彼が無理やり私のLINEにダウンロードしたスタンプを私は返した。そんな過去すら愛おしい。
目がハートになったキャラクターのスタンプ、浮気された女が、病気をうつす彼氏に送るスタンプでは絶対ない。でも彼に翻弄され馬鹿にされ笑われたことに私は今、生かされている気がする。今日も又、会えば数分でキスを交わしお互いの欲を埋め合い私は天にも昇る気持ちになる。そして彼は私に触れて付いた汚れをシャワーで洗い流し別な女の元へ行くんだ。
最近何だか涙もろくなった。そしたら少しだけ彼が優しくなったような気がした。彼につけられる痣も火傷もこの世の中で唯一の私の所持品だ。それが増えていくたびに私の心はどんどん壊されていく。涙をこらえる堤防も崩され、いつか私は自分の命を守る理性すら壊れてしまうような気がした。
『お前はくそつまらねえ』
そう言われた時より私は人間らしくなった気がする。
今の私は彼の何番目なのだろう。
その問いを今度は本気でしてしまいそうだ。
―いけない、私はそんな女じゃない。
私は彼から貰ったものを後生大事に抱きしめて、彼を待ち続ける女なんだ、そう私は自分に言い聞かせる。
シャワーの音が未だに鳴りやまない。私は立ち上がって自分の裸を鏡で見た。痣で所々赤く、痛々しい。貧相な身体は幼い時から成長してないような気がした。心も体も、もしかしたら私は14歳で時を止めている。ぶーっと彼のスマホが鳴った。画面を見れば女の名前が表示される。白くて細い私の身体。鏡を見ると目から涙が零れていた。
14歳のあの夏、私は自分の子供を殺した。私は両親に誰の子なのか言わなかった。私を問い詰める母親をなだめる父親。母親は父親にすがりついて私を憐れんで泣いた。まさか自分の娘を孕ませたのが自分の最愛の夫であるとも知らずに。例え私が真実を話しても誰も私を信用しないだろう。だって父は子供を救済するとある団体の偉い人で著書も多く書いていて、誰からも尊敬される人であったから。
私は今でも自分の子宮に子供がいるのを感じる時がある。勿論気のせいだ。けれど一度はここに命が宿った。そしてそれを私は葬り去った。あの時、私は自分の何か制御すると言う感覚が一度全て死んでしまった。涙も言葉も全て留めることなく吐き出て行った。殺せと何度も母に言った。殺せ、私を殺せ、そう言っているといつの間にか私は知らないところに一人ぼっちにされた。
誰も周りにいなくなると、私は自然と大人しくなった。
数日後に自分が精神病棟に移されたことを知ったがとりわけ何も感じなかった。一か月後に見舞いに来た母親に施設で暮らしたいと話し、私は遠い児童施設に送られ、平穏な日々を手に入れた。いじめや暴力は少なからずあったけれどどの出来事も私にとっては痛くもかゆくもなかった。
そして18歳になる年に就職し、仕事先で彼に出会った。
あれから約6年が経つ。彼は出会った時から一向に変わらない。けれど私の人間としての営みはどんどん壊れて行っているような気がする。人間らしくなったのではない、制御能力が落ちてきているだけだ。たくさんの制御機能が、壊れてらりって、けちょんけちょんに。
未だに鳴り続ける彼のスマホ。彼がふろ場から出てきた。私は彼のスマホをガン見していた。
「鳴っているのに気づいているなら教えろよ。」
彼は裸体の私に何も触れず真っ先にスマホに向かった。
『もしもし』
少し声の調子を変えて喋る彼、私にクラミジアの報告をしてきたときの声とは雲泥の差だ。私は自分の服が散乱しているベッド周りに行った。すると私の寝ていたベッドのシーツが少し血で染まっていたことに気づいた。
クラミジアの治療で抗生物質を飲んでいた私は飲み合わせが大丈夫なのか分からない為、そう言えば避妊薬を飲んではいなかった。
多くの不安が脳裏をよぎる。そして思い出される昔の記憶。14歳の夏に流した血液が今目の前に広がっている血痕に被る。
「どうした?」
電話を終えた彼が私に話しかける。
私は何も答えずただシーツを見続けた。
「あーあ、汚したな。」
拭いておけよ、彼はそう言ってバスタオルで自分の頭を拭いた。
私は自分のおなかを触りながらベッドに力なく座った。
チクリと子宮が痛む。私は思わず身をかがめた。
「どうした?」
彼は珍しく私のことを気にかけた。
私は彼を見上げた、きっとその表情はいつもは浮かべることがないひ弱な顔だろう。
「できたら、どうしよう・・・。」
私はおなかに手を置いたまま、彼に聞こえるか聞こえないか分からないくらいのか細い声で彼を見れずに聞いた。
「おろせば?」
私は上から降ってくる彼の声に、自分をせき止めていた最後の堤防を壊された。おなかに手を当てたまま私は彼を見上げる。瞬きなんて忘れ、全ての力を眼差しに注ぎ込んだ。彼は私をもう見ていない。彼は服を着ながら鼻歌を歌っていた。
「何言ってるの・・・?」
私は彼に近づきながら言った。
「私の赤ちゃん、また殺すの?私の赤ちゃん・・。」
私は彼の腰にへばりつきながら言った。
「なんだよ、気持ち悪ぃな!」
そう言って彼は腰に抱きついた私の腕を取り払い、私を床に打ち付けた。あまりの勢いに私は身体全身を床に打ち付けた。
「干からびた蚯蚓みたいな姿して、てめぇは俺にしがみついてないと生きていけねぇんだから、てきとうに言う事聞いてりゃいいんだよ」
彼は私の前髪を鷲掴み私の顔を持ち上げた。
「お前は一生俺が好きなんだよ。俺のことを愛しているからな。」
彼はそう言い捨てると私を地面に投げ、私から離れた。
―そうよ、私は世界で一番貴方を愛してる。
「私は貴方とは違うの」

私は重い身体をのっそりと持ち上げた。

彼の愛おしい背中を私は目を細めて見つめていると、彼がこちらを見た。彼のネックレスには私の知らない指輪がぶら下がっている。光が反射して、眩しくって私は思わず目を背けた。

「次はいつ会う?」

目を背けた先にはカーテンがあった。

私は自然とそちらに足が向く。

「殺して罪を被れるほどに貴方を。」
私はカーテンを止めるタッセルを手に取った。
「私は貴方を愛してる。」

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