愛別離苦

プロローグ
深い眠りから目覚めた美しい少女の瞳には、綺麗な天井であった過去を持つ、薄汚れた天井が映った。
わずかな塵でさえも一瞬触れただけで白水のような少女を、雨の後の濁流のような色へと変えてしまうのではないか、そう思わせる程に少女には潔浄で移ろいやすい純粋さがあった。
少女の視界に一匹の少年が偲び込む。少女の焦点は天井からその少年へと動いた。二人は何も言わず、二人の間に存在する何かをじっと見つめていた。そして真っ白の皿に無造作に置かれたサクランボの様な少女の唇がかすかに動いた。
「あなたはとっても苦いわ。」
楕円を描いた唇が、今度は固く一直線に結ばれた。
そして少女の目線は天井に戻った。
「なぜ苦いのか、知っているかい?」
少年は未だに二人の間に存在する何かから目を逸らせずに言った。
少女はその問いには答えず、もう何も聞こえていないようなそぶりをしていた。
少女は自分を見ることに飽きたのだ、と悟った少年はつい先ほどから自分に違和感を与える自分の小指に目を移した。数分前に爪を噛んだせいで甘皮からほんのり血が出ていた。
「恋を、しているからだよ。」
少年は鉄の味を感じながら、静かに言った。
未だに少女は、少年を見ようとはしなかった。

本文
「おはよう」
少女が目を覚ますと、枕元に腰かけていた少年がすかさず声をかけた。その声を聞くと少女は、また朝が来たのか、と思う。嬉しいのか悲しいのか憎らしいのか楽しいのか、そんなこと少女には分からない。感情を忘れた少女は、自分の抱いた感情を人に教えてもらうことでしか、その感情を知ることが出来ない。
少女は白い布団からゆっくりと体を起こした。服も布団も部屋の壁紙も全て白い少女の部屋に、茶色く日焼けした少年が居ると、真っ白なキャンパスに汚い茶色い絵の具を垂らしたようで、少女の全てが茶色く染まってしまうのではないかと少年は危惧する。だから少年は唯一白くない、少女の真っ赤な唇と黒髪に異様なほど愛着を持っているのかもしれない。
「今日の朝ご飯は、おむらいすだよ。」
少年のその言葉で、少女はおむらいすの味を思い出し、口角を上げた。差し出された少年の手に少女の手が乗る。
少女の行動は全て少年が教え込んだことだった。美味しいものを思い出したら笑う。恋人に手を差し出されたら手を取る。
少年が作り上げた少女の常識はなかなか様になっていて、二人しかいない世界の中では、所謂成功というものを納めていた。
少年は、少女が少年に対して抱く感情は全て恋心から来ているのだと少女に教え、恋というものを具体的に教え、少女が少年に抱く正体不明な嫌悪感を、好意ゆえの焦燥だと教えた。大切なのは感情の名前ではなく、感情が湧く理由だった。嫌悪感ですら恋心ゆえと刷り込むことで、少女を感情を持つ自分にとって都合の良いロボットにすることに少年は成功したのだ。少女は少年を信じ自分は少年に恋をしているのだ、と思い込むことで、少年が思い描く少年に恋する少女になっていった。
けれど人間はどんな状況になっても人間であった。少女の心にはいつも違和感という謎の空白があった。毎朝少年の眼差しを感じて目覚め、少年の手を握るたびに、少年の手に触れた少女の手のひらが、指の腹が、細胞一つ一つが冷えきってしまう。唾液の分泌を促すおむらいすを食べている時も、向かいに座っている少年のことを見ると何だか食道がキュッと閉まる心地がする。
自分は本当に少年に恋をしているのだろうか?
その問いの答えを知る手段は少年に尋ねること以外少女にはなかった。少年に見られると感じる息の詰まる心地を、恋と言う言葉で片づけてしまうのはあまりにも軽率なような気がしていたのだ。けれどいつも心の中にあるこの疑問を、自分に優しい眼差しを向ける少年にぶつけることを、なぜか少女は避けた。それは無意識に少女が少年の恋心を察知していたからかもしれないし他に、少女にそうさせる原因となっている過去のかすかな記憶が少女の中にあるのかもしれない。とかく少女は謎の空白によって、常に心に靄がかかっているような状況だった。

少年は一か月に微々たる小銭を稼ぐほどの絵描きであった。少年と少女が住む大きな家の日当たりの悪い奥の一部屋が少年の絵を描く場であった。少女は絵のモデルになるときだけ、その部屋に入ることを許されていた。
少年がキャンパスに向かっている時、少女は一ミリたりとも動くことなくその場にいることに努めた。
❘まるで古く昔からの習慣のように。
少女のその姿は人形の様で、部屋には少年が動かす鉛筆の音だけが響いていた。
「鉛筆を削る時、絵を描いて鉛筆の芯がすり減っていく時、僕は自分の命を削っている気分になるんだ。」
少年は鉛筆の動きを止めずに言った。
「削り終えた鉛筆の鋭利な形はとても美しい。けれど美しい君を描いていくと、キャンパスにいる君が美しくなっていくと共に鉛筆は段々丸みを帯びて美しくなくなっていく。
まるでキャンパスの君が、鉛筆の美しさを吸い込んでいくようだ。キャンパスの中の君を、美しい君に近づけたくて僕はまた鉛筆を削る。自分の命が削られていると知りながら。」
はあとため息をつき少年は鉛筆を止め、丸くなった芯をじっと眺めた。
そして鉛筆を持ったままのっそりと立ち上がり、人形のように座っている少女に目線を合わせるためにかがんだ。
「美しいね。」
少年は少女の曲線美を描く頬を撫でるように触れて言った。
ビー玉のように澄んだ少女の瞳が、コロンと転がって少年を捕えて、少年の中の鉛筆の芯を丸くする。その瞳に魅入られた瞬間、少年は重罪を犯している気分になり思わず少女の頬から手を離した。
そして自分が触れてしまった後でも美しいままである少女の姿を見て安堵し、少女の長い黒髪を一束手に取りそっと口づけをして、またキャンパスの前へと戻った。
キャンパスの少女を再び見た少年の、鉛筆を握る手に力がこもった。少年の顔から、さっきまでのキャンパスへの優しい眼差しは消え去る。
「ダメだ!」
そう言って少年は、鉛筆を思い切りキャンパスの少女に突き刺す。
「きっと僕の命を全て削ったとしても、君の美しさは表現できない。」
少年は今まで一度も少女を思うままに描くことが出来なかった。そのたびに少年はキャンパスの少女に鉛筆を突き刺していた。気に入らないキャンパスの中の少女を排除しようとする少年の眼差しは、一度も少女には向いたことはない。しかし少女は絵のモデルとなり、毎回同じ結末を迎えるたびにその眼差しが不思議と自分へ向いているような感覚に陥るのだ。
「何かが足りないんだ・・・。」
少年は頭を抱え俯き呟く。その苦しそうな少年の様子を少女は理解できずにいた。キャンパスの絵は自分に似た姿をしていたし、少女から見れば、むしろキャンパスの少女の方が自分より美しかったのである。色のないモノクロのキャンパスの少女は悲しそうな面影を残し、少年に鉛筆を刺されたせいで死んでしまったようだった。作品は作者に嫌われた瞬間に、その輝きを無くす。
命が削られているという話はあながち間違いではないのではないか、と思うほど少年は意気消沈していた。
男は自分の恋した女を美しいと勘違いする。そしてその勘違いに気づかないように、自分の理想と現実のギャップを味わわないように、男は女に美しくいることを要求する。
男のその本能を知っている女は、自分の男を離さないよう美しく可憐で柔順な女を演じ、男を手玉に取る。あたかもその男に愛されて嬉しいと思っているかのように、その男に染まって美しくなっていく。
そして時に他の男へと移ろいでいくこともある。その姿は、蜜を求めて花を渡り歩く蝶の様だ。
もちろん男が現実に気づき、他の女に気持ちを移すこともあるが。
男は女の芝居には気づかない。気づいたとしても、その芝居にすら酔いしれる。
男はこの世の中で一番馬鹿な動物だ。
女はこの世の中で一番賢く意地汚い動物だ。その汚さを隠すために、女体はとても美しい。
けれど美しさの中に愛があるのかどうかは謎である。その証拠に美しい蝶はいつまでも愛を求め続けて満足することを知らない。
けれど少女はまだ一度も汚れてはいなかった。
穢れがなく、汚れを隠す必要のない中で存在している少女の自然の美しさは、この世のどんな風景よりも芸術家である少年の心を躍らせた。誰の為にも生きていない利己的な少女は、この世の中で最も人間らしく何とも言えない儚さがあった。まるで強風の中で揺れ動く蝋燭の火の様だった。
その美しさを思うように表現することが出来ない芸術家の苦しみは、少女には想像することもできまい。
立ち上がった少女は、俯いている少年の元へ行った。少女は自分の行動で少年に幸福感を与えられることを知っていた。だから少女はお決まりの結末の最後には、労りという花を少年に渡し少年を大きな不幸から救うのだった。これは少年が教えたことではなく、本能的に少女に身についていた技であった。
その花の美しさで少年はまた描く勇気を得ることが出来る。
俯く少年の肩に少女の白い手が乗る。少年が顔をあげると優しく微笑む少女の顔があった。
少年の恋の苦しみも悲しみも、芸術家としての苦悩も知らないからこそ少年に向けることが出来るその表情は、どんな救いの言葉よりも少年の心に光を与える。
少女のあまりにも純粋な心に触れた少年は、少女の手を取り自分の苦しむ姿を見せてしまったことを後悔しながら部屋を後にするのだった。少女が与えた幸福感は、少年の自己肯定感の低さによって忌々しく根を張り少年の心に居座ったキャンパスの少女を、いとも簡単に追い出す。
もう少年の中にはキャンパスの少女の影すら残って居なかった。

そんな日々を送る中ある日、少年が珍しく家を空ける日があった。
その日少年は、少女と朝ご飯を食べると画材を買いに出かけた。昼飯は抜かりなく用意され、少女は日ごろから禁止されている家から出ることや、玄関の扉を開け人と接触することを守るよう少年に念を押された。
少年がいない間、少女は少年から教えられた編み物やミシンを踏んで過ごした。
そんな中、家中にピンポンと垢ぬけた音が響き渡った。
以前少女がこの音を聞いた時、少年は玄関の扉を開け近所に住んでいる小鼻にあるほくろが目立つほくろ男と話をしていた。そのほくろ男はたまに少女を外から覗いていた。そのことに少女は気づいてはいたが、特に気にすることもないことだと少女は思い、いつの間にかほくろ男に覗かれていることを忘れていた。
ふと少年に禁じられたことを思い出すが、いつも閉ざされている外の世界への好奇心が一気に心に湧き始め、扉に近づくだけにしよう、と自分に言い聞かせ少女は以前の記憶をもとに玄関の扉の前へと向かった。
扉を前にして少女は人の気配を感じ、早まる鼓動を押さえたく自分の胸元に手を置いた。自分と少年以外の‘人間’が壁一枚を隔てて存在しているという事実が好奇心のままに行動することへの罪の意識を鈍らせる。少女の頭の中は少年に禁じられたことを覆い隠すように、正当化された好奇心に埋め尽くされていた。
❘少年に知られなければ、いいだろう。
そして少女はかすかにふるえる手を動かし、鍵を開けた。やけに甲高く家中に響くその音は少年に聞こえてしまうのではないか、と少女を不安にさせた。しかしそんな思考もすぐに過ぎ去り、少女はドアを恐る恐る押す。禁じられた扉を開けた少女に未だ罪悪感はなく、好奇心と少しの恐怖心が少女の頭の中を占めていた。
扉を開けた瞬間、久しぶりに感じる想定外の強い日の光に少女は狼狽し、目を細めた。少女の細い視野には逆光のせいで顔が見えない、薄ぼんやりした黒い影が映っている。少女よりはるかに大きいその黒い影により、少女は初めて扉を開けてしまったことを後悔した。心拍数は減ることなくむしろ加速して少女は息をするのも苦しかった。けれど黒い影は少女の気持ちもお構いなしに扉を押さえ、かがんで少女に目線を合わせようと顔を近づけてくる。少女は肩をすくめ、俯いて胸元の手の拳に入る力を強めた。
「一人かい?」
低く響き渡る、初めて聞く声。
その声を聞いた時、少女の心臓に通る血管の一つがキュッと閉まった。少女はゆっくりと声の主を見上げる。
「大丈夫かい?」
顔を近づけた男の息遣いで少女は男を生きている物と再認識した。かすかに動く唇に、整われた眉、綺麗に通った鼻筋に不特定多数のそばかす。少女にとって刺激として存在する男の特徴は、一瞬のうちに少女の身体を支配した。
いつも少年から感じる、包み込むようでそしてどこか狂気的な眼差しとは異なり、一直線を見る男の眼差しは少女を貫いて、心を踏みつけ過ぎ去って行くようだった。
返答のないことを不審に思った男は、少女の顔近くから離れ少女を見据えた。
「あ・・ぅ・・・」
少女は男から見られていることに恥じらいを感じ始め、男から目を逸らした。
男はスーツを着た20代半ばの好青年とも思える出で立ちであった。
「お家の人は?」
男は何の表情もなく少女に聞いた。
少女は未だ鳴りやまない、いつも以上の心臓の音に翻弄され焦点が定まらなかった。当然男の質問に答える余裕も無く、知らない自分の感情をどうしたらよいのか分からずにただ狼狽えていた。
はあ、と男はため息をついた。
何故かその無機質なため息がすっと少女の心を冷やす。体中に流れる今にも沸騰しそうだった血液が一気に凍りそうになった。まるで蝋燭の火がふっと吹き消されたかのように、体のぬくもりが一瞬のうちに無くなっていく、そんな気がした。
「これ、お家の人に渡してね。」
男は少女の胸元にある手に、押し込むように名刺を渡すと律義に玄関の扉を閉め、足早に少女の家から去って行った。扉が閉まる甲高い音は不思議と少女の耳には残らなかった。
「あ・・・。」
少女が引き止める暇もなく、男は居なくなった。男と会っていた時間は少女にとって一瞬であったかのようにも感じられ、けれど男が去った今は百万年の眠りから覚めたような心地であった。
茫然とする少女の中に残ったのは、あの男が与えた冷たさと自分に対する疑問であった。
少女はしばらくの間、男が去っていった扉を見つめていた。
自分は何故、あの男に居なくならないでほしい、と思ったのか。少女には分からなかった。
扉から目を離し、手に握らせられた名刺を見る。白い名刺に黒で書かれる
『厚生労働省』
と言う文字が何重にもなって少女の頭の中に積もる。少女には教養がなかったため、その文字を読むことどころか、どんなものであるのかという事すら理解することができなかった。けれど男から貰った紙に書かれている文字に、愛着心と言うものを少女は持ち始めていた。
少女はその名刺を持ったまま、扉の鍵を閉めることも忘れ自室に戻った。
自室に着くとすぐさま名刺をある箱へ隠した。初めて感じられたこの思いを少年に知られたくない、と少女は思ったのだ。
けれど箱に名刺を入れた後、もう一度その名刺を見たくなり少女はまた箱を開けて名刺を手に取った。人差し指で優しくそっと名刺を撫でる。強く握ったせいで、名刺には少し折り目がついていた。
少女の脳裏に思い出されるのはあの男の貫くような眼差し。見つめたいのに見たらいけないような、そんな気持ちにさせられるあの眼差しにずっと突き刺されていたい、少女はそう思った。
息を吸い込むと肺がきゅっと苦しくなって少女は思わず生唾を飲み込んだ。
息苦しさから逃れるために少女が名刺から目を離し、顔をあげると自分を映し出す鏡があった。
自分の姿を見た少女は今までは何とも思っていなかった白い自分の肌を、何故か非常に醜いと感じた。長い黒髪も重ったるく、着ている真っ白なワンピースに付いた花の刺繍を汚れだと勘違いし、自分の目に着くあらゆる特徴全てが欠点のように感じられた。
はあとため息をついたあの男の雰囲気を、少女は嫌なほど鮮明に思いだす。自分の全てを消し去りたいと思うほどに自分が憎くかった。白い顔にぽつりとある真っ赤な唇が、白鳥の群れの中に一匹だけ混じったフラミンゴのように場違い思え、少女はふとモノクロのキャンパスの自分を思い出した。鉛筆の刺さった少女の方が自分より数段綺麗で、それに比べ自分はなんて醜いんだろうか、と少女は劣等感を持った。
いつも少年が口にする薄っぺらい言葉など、今になっては少しも少女の心に響くことはなかった。
自分はあの男に肯定してほしい。
あの男を知りたい。
あの男に会いたい。
けれど今の自分の姿では会うのは、嫌だ。
憧れているモノクロの自分に会いたくて、少女は名刺を握りしめ自室を出て少年の絵を描く部屋へと向かう。もちろん少女にはモノクロの自分を見た後、どうしようかなんて的確な考えは持っていなかった。少女はただ本能に従い、赴くままに行動していただけだった。
「何してるんだ」
自分の求めている声とは異なる、聞きなじみのある声が後ろから聞こえてくる。少女は少し驚き、急いで名刺をポケットに隠した。少年は少女に背後から近づいた。
「玄関の鍵が開けっぱなしだった。僕がいない間に鍵を開けたのか?」
少年は強引に少女を振り返らせる。少女は目も合わせずにただ数回頭を横に振った。
いつもなら目を合わせて話すはずなのに、目を合わせようとしない少女に違和感を覚えた少年は、少女の顎を持ち上げ視線をぶつける。
少女の顔から読み取れるのは、初期の頃とは若干異なる嫌悪感で、少年そのものを否定している目つきであった。
誰も知らない無知な少女の眼差しはもう消え去り、今は誰かを知り、求めている目をしている。少年が愛する、純粋無垢な利己的な少女は消えかけてしまっていた。
「誰と会った?」
少女の顎に触れる少年の手に力がこもる。少女は悟られないよう必死に少年から目を逸らし、ポケットを強く抑えた。
少年は少女の首筋に顔を近づけた。いつもと変わらない少女の匂いで、少女の潔白が未だ守られていることを知る。
それと同時に少年は、少女の肩が少しだけ震えていることも知った。
「俺が怖いか」
少年は少女に見せたことがない、怒りに満ちた顔をして問う。いつもは優しく少女を包むどこか懐かしい瞳は、今はやけに細められ不思議と少女に必要以上の恐怖心を与えた。少女の身体の震えは心の底から湧き出ている様だった。
少年は少女が強くポケットを握りしめていることに気づいた。
「ポケットに何か入っているのか?」
少年はポケットを強く握る少女の手に触れた。
その瞬間、少女は少年の手を思い切り弾いた。
今までにないことだったので、少年は衝撃のあまり体の動きを止めた。少女は少年の動きが止まったのをいいことに、そのまま少年から離れ自室へと走っていった。
走り去った少女に目もくれず少年は少女に叩かれた手にひらを凝視した。
少年にとって恐れていたことが起きてしまった。少女は外の世界を知ってしまったのだと少年は理解した。折角作り上げた二人の世界は、たった一人でも他人が介入すれば、積み上げてきた積木の一つが取れたように崩れていく。
きっと少女の変化の原因はポケットの中身にあるはずだ。少年は無理やりにでも少女のポケットを漁り、何があったのか突き詰めたい衝動に駆られる。
けれどそれは、まるで少女の服をはぎ取るような汚さや傲慢さがあるような気がしてたまらなく、少年は二つの相反する感情に挟まれ、だいぶ躊躇し苦悩した。
少年はそろりと少女の部屋の扉の前に立った。部屋から流れるのはただの静寂で、それすらも少女の雰囲気を伝えてくる。
この世の中で少女を一番愛しているのは少年なはずだ。
愛?
否、執着か。
恋なのか、依存なのか。
分からない、誰にも分からない。
少年はそっと、少女にばれないように部屋の扉を少し開けて少女を覗いた。
鏡の前に座る少女、嗚呼、美しい。
鏡に映る少女は自分の顔に触れ、顔をしかめていた。
今までは自分の姿を見ても何も思っていなかった少女は、自分の美しさに気づいていない。
今となってはまるで自分が世界で一番醜いと言わんばかりの顔を、鏡の自分に向けている。
少女は櫛を手に取り髪の毛に通した。
毛先まですらりと滞りなく流れる櫛は、すぐさま少女の髪には不要になる。
髪の毛の隙間から垣間見える真っ白なうなじが、黒髪によってより一層引き立てられ色気を醸し出す。
嗚呼、処女の美しさよ。
忌々しい男と言う生き物に侵食されていない無知な少女は、少年にとって誰にも取られたくない宝なのだ。だから少年は少女を誰にも見られないよう必死に隠してきた。
けれどやはり避けることが出来ない少女の成長というものの実感は少年の心に不安となって降り積もる。いつか自分の前から去って行ってしまうのではないか、美しく成長していく少女を見るたびに少年はそんな思いから少女への執着心を強めてしまう。そんな自分を自覚しつつ少年は自分の不甲斐なさに少し肩を落とした。目を閉じて鮮明に思い出されるのは少女が肩を震わせていたこと。少女に恐怖心を与えてしまったことを反省した少年は少女の部屋の扉を三回ノックした。
何も言わずに少年は少女の部屋に入った。少女は少年の存在を無視し、鏡を見続ける。
「さっきはごめんよ。」
少年は少女の背後に立った。鏡の中の少女が少年の顔を見る。そして優しいいつもの顔に戻っている少年の姿に安堵した少女は口角を持ち上げた。
少女は少年の気持ちをこれっぽっちも知らなかった。愛なんてものもまだ知らない。だからだろう、自分のあの男へ抱いた感情の名前も汚さも知らずに、少年が不在の時に起こったステキな出来事を優しい少年に話して自慢したくなったのだ。
少女は少年の方へ振り返り、ポケットから名刺を取り出すと満面の笑みでそれを少年へ渡した。その姿は幼い子供が自分の見つけた宝物を自慢すべく、こっそり親に見せるような感じで、自分の世界が色付いた悦びを少年に伝えようとした。
きっと自分に優しい少年は、自分の気持ちを汲み取り一緒に喜んでくれるだろう、少女はそう思った。
しかし、少年は名刺を見た瞬間顔色を変えた。
最初は少年の様子に気づかなかった少女だったが、段々と少年の負の感情を感じ取っていった。少女は少年の様子を不思議に思い少年の顔を覗き込んだ。
「・・・・これを貰うとき、何か言われたかい?」
少年のその言葉で少女は男を思い出した。
❘大丈夫かい?
あの低い声、自分の心臓を貫くような眼差し。
目の前に情景が広がる程少女は鮮明に男を思い出し、心臓が跳ね上がる心地がした。
そして思い出す、あの冷たいため息。
明るかった少女の顔が一気に暗くなる。
そんな少女の様子に、この名刺の人間と何かあったと察知した少年は少女をじっと見た。
「何か、あったろ?」
先ほど自分が少女に与えてしまった恐怖を少年は思い出しなるべく優しく、けれど少女を見る眼差しは力強く聞いた。
その眼差しで少女はほんの一瞬だけ、男を思い出した。
けれど自分の求める眼差しではないと分かると、途端に悲しくなった。
少女の景色がぐらつく。目に涙を浮かべる少女の様子に驚いた少年は、少女の涙をぬぐおうと少女の顔を手で包み込んだ。
けれどそれを拒むように、少女は首を横に振り少年の手から逃れようと少年の手首を掴んだ。少女は自分の心の中で渦巻く正体不明の感情に飲み込まれ、救いの手のはずである少年の手つきにさえ動揺した。
「あ い た い」
口から漏れた少女のか細いその言葉は、確かに少年の耳に入った。少年は思わず手の力を緩め、その拍子に少女は少年の手から完全に離れた。そして少女は名刺を手に取り大切そうに胸元でそれを抱きしめた。
新しく芽生えた感情への恥じらいを忘れ、少女は自分の大切な物を守ろうとしている。
そんな少女の背中を見て、少年は確信をした。
嗚呼、少女は恋をしたのだ、あの美しい利己的な少女は失われてしまったのだ、と。自分の恋心を自覚する人間は他人の恋心にも敏感だ。
人間は恋をすると自分の心の中にその人を置きたいという我が儘な感情を持つ。何としても恋人を自分の物にしようと、意地汚い行動も平気でとる。少年はまさにその通りの人間であるから、自分の汚さも恋の汚さも知っていた。だからこそ、その汚さを持たない少女を美しいと思い慈しんでいた。
いつもは沼の底に沈んでいる、少年の汚い泥水が沸々と湧き上がる。
不幸中の幸いか、少女は自分の感情の名前を知らない。少年が次にとる行動は、少年の心情を理解すれば当然の行動であった。
「なぜ会いたいのか、知っているかい?」
自分の心に浮かぶ質問を見事言い当てた少年に、少女は藁にもすがる思いで期待の眼差しを向けた。未だに少女は恋の残酷さを知らない。
「君はその人のことが、大嫌いだからだよ。」
少年は少女の髪を撫でながら、ゆっくりと自分の言葉を少女の心に刷り込ませた。
少女の涙が止まる。
❘大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い?
その言葉が少女の心に中に何度もこだまする。
意味は全然分からない、けれどなぜかその言葉の不思議な力で体が芯から冷たくなり、少女は体を動かす気力を無くした。
「君はその人のことが大嫌いだ。だから会ってその人を殺したいんだ。」
優しく触れる少年の手つきは、まさに洗脳だった。一つ一つの言葉をしっかりと少女の心に刻む。
❘殺したい。
いつか少年が読んでくれた本に、殺すという言葉に付随して死ぬというワードが出てきたことを少女は思い出した。
「死はね、殺す、ということをすると訪れるんだよ。自分の大嫌いな人を殺すとね、自分は幸せになるんだ。」
「なぜ?」
少女はよく少年に「なぜ?」と聞くことがあった。けれどその疑問の言葉にはあまり疑問の念はこもっておらず、むしろ少女にとっては相槌のようなものだった。
「殺したら、その人は居なくなるからだよ。」
そのリアリティー無い言葉を皮切りに、少女はもう少年の話を聞いてはいなかった。
しかし居なくなる、という言葉の深さや切なさを、あの男に会いたいと願う気持ちを実感すると共に知った少女は少年の以前の言葉の意味を理解し始め恐怖を感じた。
「こ ろす・・・?」
少女はぽつりと呟いた。
「そうだよ、君はその人を殺したいんだ、大嫌いだから。君はその人が大嫌いなんだよ。」
少年はまるで正しいことを言ってるかのように振舞っていたが、少女の心にはいつもある違和感という謎の空白は、どんどん広がっていくばかりであった。
「大丈夫だよ。」
少年は少女を抱きしめた。
「君は僕のことが好きなんだ。僕も君のことが好き。だから僕らはずっと一緒だ。」
少年にきつく抱きしめられ、少女の目の前には少しの少年の匂いと薬品の匂いがする暗闇が広がった。その暗闇に浮かび上がるのはあの凛々しい男の顔だった。
けれどその顔はどんどん薄くなって消えていく。少女の意識が遠のいてきたのだ。
❘なぜいなくなってしまうの?
❘ころしてしまうから?
少年は独りで立つ気力を失った少女を抱きかかえると、少女をベッドへ寝かせた。
「おやすみなさい。」
少年は少女の黒髪をそっと触った。
その愛撫での心地よさで、少女は半分入りかけていた眠りの世界へと完全に落ちていく。
「頭の形は幼いころから変わらないね・・・。」
可愛い少女の寝顔を見ながら少年はそう言葉を残し、少女が大切に持っていた名刺を手に取ると少女の部屋を後にした。
少女の夢の中には、自分が大嫌いなはずであるあの男と少年が現れた。けれど少女にとっては愛も殺意も同じくらい訳の分からないものである。きっと少女は夢の中の自分の動向を思い出すことが出来ない。
植え付けられた愛や殺意は本当に働くのか、少女の夢の中での動向はそのうち現実世界で明らかになるであろう。

あの男に出会ってから、少女は絵を描くようになった。その絵は幼稚園生が描くような可愛らしい絵であったが、一つ不思議なのは少女の絵には色がないという事であった。少年は少女にクレヨンを与えたが、少女は鉛筆しか使いたがらなかった。
外の世界を知らない少女の描く絵は、少年には理解し難いものが多く、けれど少年は少女を褒めることを怠らなかった。少女の描く女の子は、目が細く髪が短く、唇が薄く、とにかく少女と正反対であった。きっと少女にとっての理想の女の子はそんな子なのだろう。
恋をした女の子は、どんなに自分の容姿が良くても自分の見た目にコンプレックスを持つ。
魅力ともとれる少女の特徴は、盲目である少女にとっては醜いものなのだ。しかし少年は、傷を隠すために少女が貼った絆創膏を剥がすように少女のコンプレックスを盛大に褒める。
少年の言葉は、まるで傷なんかついてないと言わんばかりであった。けれど怪我をしたと思い込んでいる少女にとっては、少年の行動も言動も少しも信用に値しないのだ。
❘確かにあの時、男は自分を嫌な目で見た。
少女は誰に教わったわけでもないが、相手から伝わる嫌悪感を察知する能力を身に着けていた。感情がある唯一の生き物である人間にとってそれは当たり前のことかもしれないが。
あの男が自分を嫌な目で見たのは、きっと自分の醜い容姿のせいだ、だから自分は醜いのだと無知な少女は過信した。
思い出すだけで心が一気に冷え切ってしまうあの冷たいため息も、全て❘。
少年に殺意を知らされたあの時から、少女はあの男に出会った喜びを表現することを辞めた。それはあの時の少年の眼差しの恐ろしさと、洗脳のせいであろう。けれど少女の描く絵からは恋の甘さがにじみ出ていて、芸術家である少年にはそれが目の前にあふれ出るほど鮮明に認知されたのだった。
教えられた殺意、名前の知らない恋心。
それらを考え出すと、十数年しか生きていない少女の心には重ったるく、少女はますます自分の世界に走るのであった。
恋をすることで色付き始めた世界に居る少女は逃避からかモノクロの世界に魅力を感じていたため、時折少女は少年が絵を描く部屋に忍び込み少年の描いたモノクロの自分を見ていた。刺さった鉛筆のせいで、キャンパスの自分はどこか悲しそうだった。作品は、作者に見捨てられた瞬間に死を迎える。このキャンパスの自分はとっくに死んでいった。少女はキャンパスの自分に刺さった鉛筆を抜いた。空いた穴に吸い込まれて、自分もモノクロになれたらいいのに、そんなことを考えながら少女は絵に見とれた。
キャンパスの自分は色がなくて、とても綺麗だ。それに比べて自分の唇はやけに目立つ色をしていて、髪の毛は海苔のように重ったるいのだろう。少女は以前鏡の前で感じた劣等感をふつふつと思い出した。
その劣等感は段々と憧れに変わっていく。しかしモノクロの世界など実現不可である。その事実も知らぬまま少女はモノクロの世界に夢を見る。現実は、純粋な者にとっては居るべき場所でない気がしてならない。
少女の行動に少年は気づいていながらも、なんだかそれは触れてはいけない少女の発達の兆しのように感じ何もすることが出来なかった。それはあの日、無理やり少女のポケットを覗こうとした自分を押し殺した時のようであった。けれど少年は、少女の恋心をむしり取ろうとした自分の愛の汚さを知っている。現に少年は、それがどんな結果を産み出すか想像もできない癖に、少女に殺意という刃物を与えたのだ。けれどその刃物は紙よりも脆く、雲のようにふわふわしたもので、狂気性はみじんもないものであった。少年がどんなに少女にしっかりと刃物を持たせたとしても、その刃物が刃物としての効力を持っていなければ、きっとすぐに少女はその刃物をどこかに投げ捨ててしまうだろう。持っていても持っていなくても変わらない刃物なら、その刃物は少女にとって荷物になるだけなのだから。

そんな少年少女に起こった、悲劇の幕開けは突然であった。その日は何の変哲もない桑の花が咲く、暖かい日だった。少女は桑の実のジャムが大好きで、家の庭にある桑の木に紫色の実が生るのをとても楽しみにしていた。
少女が自室から外を眺めていると、ピンポンと垢ぬけた音が家中に響いた。
少女の中で思い出される男の記憶。
少女は植え付けられた殺意など忘れ、男に会いたいと思いすぐさま部屋から出た。
階段を降りながら玄関を見ると、少年がほくろ男と話をしていた。
少女がちらっとほくろ男を見ると目が合ったが、求める男でないと知ると落胆した。そんな少女に気づき、少年は「おいで」と声をかけた。
自分を他人に見せることをあんなに嫌がっていた少年が、自分を他人に会わせようとしていることに若干の違和感を覚えながらも、少女は階段を下りて少年の隣に立った。
「こんにちは。」
扉を押さえながら立ち、優しそうに眼を細めて挨拶するほくろ男に少女は軽く会釈した。
「これ良かったらどうぞ」
ほくろ男はそう言ってどこかのお土産を少年に渡していた。
やはりあの男が来たわけではないのか、と少女は分かっていることながら再びがっかりしこっそりとため息をついたが、ほくろ男が用事を終え帰ろうと少し位置をずらすと、少女が待ち望んでいた顔がそこにはあった。
その顔を捉えた瞬間、少女は嬉しさのあまり自然と自分の顔がほころぶのを感じた。少年は少し驚いた顔をしたがすぐさま顔を引き締めた。
少女は男から目を離せずにいたが、男から少しの微笑を返され、恥ずかしさのあまり顔をそむけた。
「こんにちは。」
男と、もう一人中年のおじさんがほくろ男の後ろに立っていた。ほくろ男は来客者達に軽く会釈をして、自分の家へとそそくさと帰っていった。
「お待ちしてました」
そう少年は言い、男に見惚れる少女の肩にそっと触れた。植え付けた殺意が消え去ってしまわないように、洗脳が解けてしまわないように少年は少女に優しくしっかりと触り、そんな少年の行動に少女は肩をびくつかせた。心の中にじわじわと感じられる大嫌いという言葉の鉛のような重さに、少女は顔を曇らせた。
「どうぞ、あがってください。」
少年は来客者にそう声をかけ、二人分のスリッパを床に用意した。すっと少年は少女から離れ二人の来客者をリビングに誘導した。中年のおじさんは「お邪魔します」と言いながら、すぐさまスリッパを履き少年を追いかけた。男がスリッパをはきながら少女に声をかける。
「元気かい?」
以前のあの冷たい雰囲気が嘘のように、暖かい笑顔で男は少女を見ていた。
少女はコクリと頷いた。
「じゃあ、行こうか。」
男は、少年が先ほどまで触れていた少女の肩を優しくポンと叩くと、少年の後を追った。肩を叩かれたその拍子に、少女の心からポロンといとも簡単に鉛が落ちた。
男に触れられた肩に血液が集まってくるような、そんな感覚が生じる。細胞一つ一つが温まり、体の中にこの喜びを取り込みたいと触れられていない細胞が騒ぎ出す。
男が遠ざかっていくのを感じ、少女は我に帰るとすぐさま男を追いかけた。
リビングではいつもは二人分しか用意されていない椅子が、今日は四人分用意されていて、テーブルには少しのお菓子と紅茶が出されていた。
「こちらにどうぞ」
少年は手前の二席に来客者を誘導し、少女を自分の隣に置いた。少女は男の向かい側の席に座り、手を膝に置くなどいつもよりも澄ましていた。
そこから少年と来客者の会話が始まったが、少女には分からないことばかりで、少女はすぐさま話に耳を傾けることを辞めた。手元に用意されたいつも読んでいる絵本を読むふりをしながらちらちらと男を盗み見て、目が合いそうになると何事もなかったかのように本に視線を戻す、そんな分かりやすい恋心を必死に隠そうとする少女は、誰の目から見てもとても愛くるしかった。
一時間ほど来客者達は話をし、また来る、と言って席を立った。
「お手洗いをお貸し願えますか?」
中年のおじさんが少年に言った。
「ご案内いたしましょう。」
少年はすっと席を立ち、おじさんを広い家のお手洗いまで案内した。
リビングでは少女と男が二人きりになる。少女はどんな顔をしてよいのか分からず本を読むふりをして、時たま目線だけを男に向けていた。
「なんの本を読んでいるの?」
男は少女の方に身を乗り出して、少女に優しく声をかけた。
少女が読んでいる絵本は、女の子が海を歩いている時に出会った男の子にもう一度会いたいとお月様にお願いをすると、お月様が地上に落ちて女の子の会いたかった男の子に変身する、というお話だった。
少女は絵本を机の上に広げ、女の子を指さしその指をお月様の方向にスライドさせながら
「あ い た い」
と言った。
男は少女が必死に伝えようとする様子をかわいらしく思いつい微笑んだ。
「そっか、この女の子は恋をしているのだね。」
男は頷きながら言った。
その時少女ははっとした。会いたいと願う事が恋をしていることだと言ったその男の言葉で、自分の心情を思い出したのだ。
「こ い・・・・?」
少女は男に聞き返した。
「そうだよ、好きって思うことを恋って言うんだ。」
男は優しく少女に教えた。
今までの少年の言葉とは異なり、なぜかすごく腑に落ちて、男の言葉はまるでパズルのピースのように少女の心の空白にピタリとはまった。
会いたいと思うことは大嫌いという事ではなかった。少年によって被せられた洗脳という上着は男によって教えられた知識という風で簡単に吹き飛ばされ、少女は自分が男に恋をしているということを知ってしまったのだ。
ガチャリとリビングの扉があき、少年と中年のおじさんが部屋に戻ってきた。
「そろそろお暇致します。」
そう言って来客者達は頭を下げた。少女は未だ席を立たず、男を見ることもなくただ絵本をぼうっと眺めていた。
少年が来客者達を見送り、少女のいるリビングに戻ってきた。
❘なぜ少年は自分に嘘を教えたのか
恋心を殺意に塗り替えようとするなんて普通の神経では考えられない。少年は恋に溺れた狂人なのだ。
「・・・どうかしたのかい?」
少年は少女の雰囲気を感じ取り聞いた。少女はゆっくりと絵本から目を離し少年を見た。その悲しそうな瞳から恋を自覚した悦びは感じられない。むしろその瞳からは自分に嘘をついた少年への不信感がひしひしと感じられた。裏切られた、そうとも思っているかもしれない。勿論男が嘘をついていると考えることも出来るが、そんな風に思えないほど男の話には信憑性があるように少女は感じたのだ。
覗き込んだ少女の顔はどんどん暗くなる一方で、少年は真実を知ってしまったのかと不安になった。少年は少女の肩に手を伸ばす。けれどその手は素早く叩かれた。それは、もうそんな少年の手には乗らない、そんな少女の意思表示のようであった。
「だいきらい」
そう少女は呟いた。
恋を自覚した少女のその言葉は、ゆっくりとはっきりとなんの躊躇もなく、少年の心臓をえぐり取った。
去ろうとする少女の腕を少年は慌てて引っ張る。掴んだ腕はあまりにも細くて、幼い時から成長していないような気がした。
抵抗する白い少女の腕が少年の力強さで赤くにじむ。
痛さで歪んだ少女の顔が、少年の嫌な記憶を思い起こさせる。
華奢な少女の肩を掴んで少年は抱きしめようとした。
「や めて」
首を振りながら少年の胸元を押して少年から離れようとする少女。
けれど少女のか弱い力は少しも少年の理性を止めることはできず、少年は少女の腕をどけて無理やり少女を抱き寄せた。
少年は、少女を失いたくないその一心で少女の心を縛り付けようとした。けれど小刻みに震える少女の背中で少年は我を取り戻した。少年は少女を抱きしめていた手を緩め、少女の二の腕を掴んで顔を見た。
恐怖や戸惑いに満ちた少女の顔で思い出される、今はまだ少年に中にしかない過去の記憶。
数年前、このリビングのこのフローリングに少女は横たわっていた。
呼吸もままならず肩で息をし、多くの傷を負った少女は所謂少年らの父親によって心も体もぼろぼろにされていた。
泣き叫ぶ母親と非力で何もできない少年はリビングで地獄を味わっていた。
少年はあの風景が今にも目の前に広がるような気がして、今少女の腕を掴んでいる自分も又、自分の父親と同じことをしているのではないかと思ってしまう。あの時、自分は少女のために何もしなかった。けれど自分の母親は少女を守るため父親を殺した。そして罪を全て背負って母親は首を吊って死んだ。そしてそんな悲劇の姿をした母親を最初に見つけたのは最愛の娘である、少女だった。
そのショックで少女は記憶と感情を忘れた。
そして少年は美しい最愛の妹を自分の物にしようと恋という幻に大切に包んだ依存心を少女に押しつけた。
少女への精神的な虐待はまだ続いている。
その証拠に少女の腕は今もなお真っ赤だ。
今の少女に虐待されていた記憶はない。けれど思い出したらどうなるだろうか。父親にまるで人形のように扱わられ床に打ち付けられた日々の痛みや悲しみ、母親の死に顔を見たなんと表現してよいのか分からないほどの地獄を少女に呼び戻せば、もしかしたらまた感情を忘れ少女をリセットできるかもしれない。
劣悪な環境で育った少年の汚い恋心に似せた執着心は、少女を苦しい状況に堕とし入れる穴をどんどん掘り進めていく。
血は争えないのだ。
少年は自分の父親が犯した過ちをまた起こそうとした。けれど可愛い少女に暴力を振るい記憶を思い出させることなんて、少年にはできなかった。
少年は少女の二の腕を握る手の力を緩めた。
逃げる力を無くし少女は俯いたままその場に佇んでいる。あまりにも静かな沈黙がリビングだけでなく家中に広がる。
「覚えているかい?」
ピンと張った障子を破るように少年が沈黙を破る。少女は何も言わずに少年を見た。
「君はここで、強い力で床に打ち付けられたんだ。」
少年は床を指さす。
「そして君のあばらは、たくさん折れた。」
少年は少女を抱きしめ、少女のあばらにそっと触れた。
「ほら、ここだよ」
その瞬間少女は稲妻が走るように体を震わせた。体中が一斉に少年を拒否する。
「君は頭を床に打ち付けて、その衝撃で体全身が鞭のようにうねった。」
一言一句しっかりと少女の耳に届くように少年は丁寧に言葉を発した。
「痛かったねぇ、苦しかったねぇ、憎かったねぇ、死にたかったねぇ。」
「でもね、君は逃げられなかった。」
可愛そうに、そう小声で少年は呟いた。
少年の言葉で少しずつ甦る記憶に震えが止まらない少女の身体を、少年はきつく抱きしめた。少女の耳元に少年の口が近づいて、記憶を取り戻すことを拒む少女を決して逃がそうとはしない。
「喜ばしいことに君のお父さんは死んだ。」「包丁で、ぐさっと、ね。ほら、ここだよ。」
少年は少し笑みを浮かべて少女の脇腹を撫でた。服を通して伝わった少年の手の冷たさに少女は臓器の暖かさ全てが奪われてしまうのではないかと思った。少年の指一本一本の動きが少女の感覚を刺激するたびに少女の心には恐怖が渦巻いて少女の気管はキュッと閉まる。
「よかった、よかった。」
ふふふと笑う少年の鼻息が少女の耳に届いて少女は気持ち悪さに顔を顰めた。
少年の少女の脇腹にあった手が少女の頬に移動する。
「でもね。」
少年は親指で少女の顔の凹凸を撫でながら悲しそうに眉を下げて少女の目を見た。
「悲しいことに君のお母さんも」
次に言う言葉を一瞬だけ躊躇したのは未だかすかに少年に人間の心があったことを表している。けれど少年は、口を開いた。
「死んだ。」
徐々に鮮明になっていく思い出される少女の記憶は、きっと少年よりも痛くて苦しくて、思い出さない方が少女は幸せだろう。そんなこと少年には分かっていた。けれど少年は少女を自分の物にしたい一心で少女の心を容赦なく壊した。
❘お母さんも死んだ。
少女の中にこだまするその言葉は次々に少女の頭の奥底にしまわれていた記憶をゆっくりと引きずり出す。
少女の頭の中に過去の記憶がまざまざと広がった。茶色のフローリングに這いつくばり見上げると、そこには自分を痛めつけて殺そうとする男性の顔があった。必死に逃れようと身体を動かすけれど足が上手く動かない。自分が宙に浮くのではないかと思うぐらい髪の毛を引っ張られた。生き地獄への拒否反応で肺が上手く機能せず、必死に息を吸っているのに二酸化炭素が出て行く一方だ。
自分を痛めつける男性にすがり泣いている女、何もできないと思い絶望のあまり立ち尽くす少年。誰しも不幸で、自分の意識は段々遠のいていく。
少年の叫び声で少し意識を取り戻すと、自分と男性の前に、さっきまで泣いていた女が震える両手で包丁を持って立っている。その顔は殺意に満ちていた。女は首を振ってやめるよう促す少年の声にも耳を貸さず、迷うことなく自分に暴力を振るっていた男性に包丁を突き刺した。
自分は解放され、床に座り込んだ。それと同時に力なく床に崩れ落ちる男性。
目の前に倒れている、さっきまで自分を痛めつけていた男性は鮮血を流していた。少しの粘り気のある血液は、どろどろとフローリングに広がって自分の足にまでたどり着く。
血液ですら、自分を痛めつけたいのだろうか?

そんな風に少女は思った。

女は血だらけの手で少女を抱きしめた。不思議と女と少女の心臓の鼓動は同じ速さで動いていた。
息を吐きながら女は少女から離れ、愛おしそうな眼差しで少女の頬を手で包んだ。
真っ白な少女の頬が少し冷たい紅で染まる。
「愛しているわ、カウノス。」
❘カウノス
そうだ、私の名前はカウノス。
そして私を慈悲の愛を持って抱きしめているこの人は❘。
少女は思い出した母親の言葉をきっかけにあふれ出る沢山の記憶で瞬きすることを忘れた。
脳内を忙しく駆け巡る多くの記憶の中ではっきりと思い出されるのは、首を吊って死んだ母親の青白い顔だった。
次に思い出したのは、今この現実で自分を抱きしめている少年は、自分に暴力を振るっていた父親の最愛の息子である自分の兄なのだと言う事であった。
そのことを思い出した瞬間、少女は思い切り少年を突き放した。
じっと少女を見つめる少年の眼差しは、どこか父親に似ていた。
目を覚ました時、嫌悪感を抱いたのはその眼差しのせいだったのだ。
全てを思い出した少女は少年から目を逸らす。そして震えを押さえようと自分の身体を抱きしめた。虐待で苦しんだ過去を体で思い出せるほど自分に鮮明な記憶を与えるこのリビングでは、自分がここに存在することすら少女には耐え難いことだった。
「思い出したかい?」
その問いに少女は答えなかった。それが少女に記憶がよみがえったことを物語っている。
記憶を思い出せばショックでまた少女は感情を忘れると思っていた少年は、ただ冷酷に少年を無視し続ける少女の様子に若干の焦りを感じた。
感情を忘れさせなければ、きっと少女は父親そっくりの自分を拒否するであろう、想定外に冷静さを保っている少女の前で少年の焦りは刻一刻と増すばかりであった。
「カウノス・・・。」
少年は少女に手を伸ばした。けれど虐待の過去を思い出した少女は、少年の動きの影にすら驚き身体をびくつかせる。
そんな少女の様子を見て少年は自分の過ちに、どんな罪償いをしても償え切れない過ちの奥深さをようやく感じた。もう今更少女を救ってやることなんてできない。少年は自分の情けなさで立つ気力を無くし、その場に座り込んだ。そこはちょうど父親が死に倒れ血を流した場所だった。今は亡き両親の怨念がリビングに流れ、少年を後悔という罪悪感で押し殺そうとしていた。
自分につらい記憶を思い起こさせるリビングから逃れようと少女はリビングの扉の方へ歩く。
「どこに行くんだ。」
少年のそんな声も無視し少女はリビングを出て行った。
少年はリビングに残り、少女がこの家から出て行く音を聞いた。記憶を取り戻した少女は、きっと記憶をなくした14歳の頃の知能はある。だから心配ないと少年は一瞬思ったが、しかし知能があるからこそ危険なこともあると気づいて、すぐさまリビングを後にして家を出た。
「どうかしましたか?」
さきほど家を訪れたほくろ男が焦る少年に声をかけた。
「さっきあなたの家の女の子があっちに行きましたよ。」
そう言ってほくろ男は少女が出て行った方を指さした。
「ありがとうございます。」
少年は軽く頭を下げるとほくろ男の指さした方に走っていった。
前々から少女に性的興奮を覚え、少年少女に関心を抱いていたほくろ男は二人を知る絶好のチャンスと思い少年の後を追いかけた。
少年の愛は歪んでいたが、けれど確かに愛はあった。少女を大切に思い守りたいと思う気持ちは嘘偽りのないものだ。
少年は必死に少女を追いかけた。
だいぶ走った後、少年は昔よく遊んだ泉で少女の姿を見つけた。少女は水辺に佇み、水面に映る自分の姿を見ていた。少年は少し安堵し息を整えながら少女に近づく。
「私、お母さんにそっくりね。」
少女はそう呟くと堪えていた涙をこぼした。自分を守ってくれた母親に会いたいとどんなに願っても、水面に映るのは母親にそっくりな自分だ。その水面の自分の隣にいるのは父親そっくりの兄。
少女は握っていた小さな石を泉に投げ込む。
揺れる少年少女はどう強く願っても、会いたい母親の姿にはならない。当たり前の事なのにその事実は重く少女に圧し掛かった。
「なぜ、私に記憶を戻させたの?」
少女が口にしたその疑問は少年への恨みもこもっている様だった。
❘思い出さない方が幸せだったのに。
少年は、そんな風に少女に言われている気がした。影のようにぴったりと少年に憑いてくる罪悪感が魔物に姿を変えて少年を飲み込もうとしている。もしかしたらその魔物は母親かもしれないし、父親かもしれない。
「記憶を戻せばショックで君はまた感情を忘れて、僕を好きになってくれるかと思った。」
自分の最低さを承知の上で少年は、自分の罪悪感に酔ってしまわないように淡々と答えた。
少女は水に映る自分から目を離さなかった。
「そう。」
少女はただ一言そう言った。
「残念ながら、私は感情を忘れられなかったのね。」
少女は足元にあった小石を拾ってもう一度小石を泉に投げ込む。
「僕は君が好きだ、君が欲しい、愛してる。」
記憶を戻したとはいえ、少女は未だに愛や恋心に親しみや理解が薄い。けれど少年の好意は兄妹間で生まれる感情ではないということは、少女にとって確かだった。少年の深く重い愛を受ける心は未だに少女には無い。
少女は少年を見た。
「気持ち悪いわ。」
はっきりと言ったその少女の言葉は一般的な兄弟間では当たり前だ。けれど歪んだ愛情を持つ兄にとっては天地を割くほどの悲劇であった。
そんな会話を木の陰から聞くほくろ男は今まで不思議で仕方なかった少年少女の秘密を知った。
「君に嫌われたのなら、僕は死ぬよ。」
そう言って少年はかがんで水に手を入れた。
冷たく冷えきった泉は死にはもってこいの場所だ。水に映った少女の顔が母親の様で、少年は母親が自分を呼んでくれているような気がした。
「嫌いなわけじゃないわ。」
少年を止めるように少女は言った。そして少年と同じくかがんだ。
「お兄ちゃんがいなくなったら私はまた記憶や感情を忘れてしまうわ、きっと。」
少年を慰めるように少女は優しく言った。
いつも変わらず自分を労わる少女の優しさに少年は、兄弟愛と失恋の痛みを同時に味わった。
「私には恋も愛もよく分からないわ。相手を痛めつけてまで手に入れたいものなんて、いったいどんな価値があるっていうの?
お兄ちゃんの恋心に私は本当に存在していたの?」
少女のその問いに少年は答えられなかった。
「でもお兄ちゃんはとても大切よ。」
少女は微笑みを浮かべながら少年の背中をさすって言った。
何度もうなずく少年の姿に少女が安心したその時、背後からこの兄弟たちを引き裂こうとする魔の手が近づいていた。
「一つだけ思い出せないことがあるの。」
少女は少年に言った。
「なんだい?」
「お兄ちゃんの名前。」
その言葉を言った時、少年の背後には一人の人間が潜んでいた。それに少年少女は気づかない。
「僕の名前は、」
そう言った瞬間、少年の背後にいた人間の顔が兄弟たちの間に入り込む。
「ビュブリスだよ。」
その言葉が合図であるかのように、少年は背後の魔の手により深い泉の中に思い切り突き落とされた。
助けを求めるように抗いながら伸びた手も、助ける間もなくあっという間に水の中に消えていく。
「お兄ちゃん!」
少年を助けようと水に飛び込もうとする少女は、背後から来た魔の手によって抑えつけられ、何も返ってくるはずのない水に叫ぶ。
やはり返答は帰ってこず、死という事実だけが水面から浮かび上がってくる。
少女のすすり泣く声と過呼吸気味な呼吸だけがそこには響いていた。
自分を押さえつけている小鼻のほくろの記憶を最後に、少女はショックのあまり意識が途絶えた。

深い眠りから目覚めた美しい少女の瞳には、綺麗な天井であった過去を持つ、薄汚れた天井が映った。
わずかな塵でさえも、一瞬触れただけで白水のような少女を雨の後の濁流のような色へと変えてしまうのではないか、そう思わせる程に少女には潔浄で移ろいやすい純粋さがあった。
少女の視界に一匹の男が入り込む。
その男は小鼻に大きなほくろがあって、少しの間も見つめていたくないほどの顔のなりであった。
視界に入り込んだほくろ男を見て、真っ白の皿に無造作に置かれたサクランボの様な少女の唇がかすかに動いた。
「あなたはとっても苦いわ。」
楕円を描いた唇が、今度は固く一直線に結ばれた。
そして少女の目線は天井に戻った。
「なぜ苦いのか、知っているかい?」
少女はその問いには答えず、もう何も聞こえていないようなそぶりをしていた。
「恋を、しているからだよ。」
少女のビー玉のような澄んだ瞳から一粒の涙が零れ落ちる。そのすべてが真っ黒なほくろに吸い込まれてしまうのだった。


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