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頭の中の静けさ

病院でもらったお薬をのんで、めまいが楽になってきた。

ただ「しんどい」でいい

病院に行く前に、鍼灸院で整えてもらってマシになったときに、頭の中がうるさいことに気づいた。

なんだか、頭の中でずっと言い訳している。しんどくなった理由、誰かの何かのせいにしてみたり。どれだけしんどいか説明しようとしてる。途中で、「違う、『ただ、しんどい』でいいんだ」と気づく。

また子どもの頃に身に付けた心の鎖(思い込み)を見つける。
「しんどいことに理由が要る」
「正当な理由がなければ、休んではならない」

まだ今の時点で、この鎖を手放せてはいない。鎖があることに気づいたものの、まだ手放す気にはならないみたい。

自己流

めまいでしんどい間、自分が今やっていることが間違ってたんじゃないかと不安がわいてきた。

瞑想も自己流だし、ぼこぼこ嫌な気持ちを引き剥がしていって、どんどん鎖を外していっている。プロの手助け無しにこんなことをして、何か間違ったことが起きてるのではないか、とか。自分でやっているものは「正しい瞑想」ではないからだろうか、とか。

ただ、「本当の自分」に出会う過程でめまいが起きることは、まぁ情報として、わりと当たり前みたいに見つかるわけで。病院に行って問題ないことを確認したら、あとは過ぎるのを待てばいい、という情報を頼りにしてみる。

正しい瞑想

まずは「正しい瞑想」をやってみたいと思った。あいかわらず、本から情報を吸収しようと読み漁る。以前から、いくつか瞑想の仕方を教えてくれる本を読んでみたりはしているものの、いまいち心に響かない。

できればワークショップとか個人セッションで教えてもらえたらいいな、と自分が習いたいと感じる著者を探す。お一人発見。Kindle本を4冊ほど読んで、LINE登録もしてみた。

その方がいいな、と思った理由は、本を読んでいて優しさがあふれている感じがしたり。子どもの頃にお寺に通ってたという共通点があったり。禅寺での経験に加えて、アメリカに行ったり、タイやインドで修行したり、ロンドンで住んでたりという、国や宗教を問わず「瞑想」を極めようとしているところに惹かれる。

本に書かれている基本的な瞑想をやって、頭の中に静寂をもたらすのは大事だな、と思った。脳内ホルモン大事。

心に従う

頭の中が静かになると、無性にいつものイメージワークをしたくなった。体の一部がムズムズする感じ。下から順番にチャクラに詰まっているものを取り除いていってる感じでやっている。このときは胃の辺りの何かを取り除きたくなった。それはもう無性に。

結局、自分の心に従ってイメージワークやっちゃいました。そして、また気分良くなっちゃいました。まだちょっと、自己流で大丈夫だろうかという気持ちにはなったけど、だって、やりたくてやってるし。気分良くなるし。体軽くなるし。

不安な気持ちが出てくると、また本を読む。そして、なんとなく、自分が直観でやりたいと思ってやることこそが大事なんじゃないかと腑に落ちる。

ほらまた、人と比べて不安になったでしょ、と。他の人は、その人がやろうと思ったことをやればいい。私は私がやろうと思ったことをやればいい。

お経を読む

ふと、小学校のとき、地域のお寺に日曜学校ということで週一回通っていたときを思い出す。毎回、お経を読む(唱える)のだけれど、お経に書かれている意味もわからず、ただお経の本の文字を追ってお腹から大きい声を出していた。何年もやっていると、もう何も考えずひたすらお経の文字に集中して、みんなで読み上げるのが当たり前になる。

大人になって実家で法事やお葬式に参列すると、子どもの頃に身に付いた読経が、町ではあまり浸透していない文化であることに気づく。少し離れて住む親戚はこの習慣がなく、張り切った声でお経を読む私や姉を見て驚く。

そうか、実は子どもの頃は、頭の中を静かにする習慣があったんだな、と思う。頭の中がうるさくなったら、お経を読むのもいいかもしれない。

ふふ。また自己流。結局、どこまでいっても自分のやりたいようにしか、やれないのだろうな。

とりあえず、自分の直観に従ってみようと思う。

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