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【掌編】不随意運動

  小便が、便器の上にきいろく一滴残っている。トイレットペーパーを追って巻き取り、それにあてがって捨てる。男にとってそれは音もなく、感慨もない作業だった。曲げていた腰を伸ばし、チェスターコートに手を伸ばす。一刻も早く、取引先の最寄り駅には着いておきたいと思う。男は、個室から出て、手をぞんざいに洗い、ジェットタオルにかけながら改札までの距離と次の電車の乗車位置について考えていた。ジェットタオルの音が脳のノイズみたいに作用する。思考は停滞する。


 「只今、〇〇駅と××駅の間の信号トラブルで上り方面に五分ほど遅れが発生しております。ご不便をおかけいたしまして、大変申し訳…」
 駅のあちこちのスピーカーから同じ男の声が複製されている。煩瑣。ただ五分の遅れでこんなにも人々が堆積するこの世界に嫌気がさす。何が悲しくて毎日同じような服を着て同じような仕事をしなければならないのだろうか。不快だが、それだけだった。男の思考は外へと藻掻いてゆく。おれはどうしてこの仕事をしている? おれは何を目標にしてきた? おれが一番大事にしてきたものは? そのすべてに答えが出ない。思考と現実が混交する。前に並ぶ、男と同じ上下ビジネススーツという格好をした男の持つ携帯から、低い灰色の声が聞こえた気がした。「オマエハ、ナゼ、生キてゐる?」

 プラットフォームの黒い葬列が゙、滑り込んできた鉄の棺へ仕舞い込まれる。乗り込もうとする男の直前で電車は満員になり、次の電車を待たなければならなくなってしまった。


 男を一つの直感が射貫く。果たしてあの小便は、きいろい斑点は、おれ自身だったのかもしれない。おれは、流れの外には出られないのだろう。せめてもの抵抗として、しろい便座のうえに孤高に滴ったお前。おれは、何のために生きた? おれは、何のために生きてゆくのだ?
 
 いかめしい顔をして、電車がホームへ入ってくる。ヘッドライトの平準化された光が黒い人々の横っ面を平等に撫でてゆく。白い顔の明滅。黒い顔に戻った。そして決心がついた。いや、それは正しくない。はじめから自分の生になんて期待してはいなかった。ここで、ただ、おれは死ぬ。こいつらの、この黒黒した人人を道連れにして。おれの最期の抵抗を見せてやろう。そしてこいつらの魂を少しずつ持って逝こう。

 
 思うや否や、震える足で男は地面を蹴った。それは諦念に駆られたいわゆる脱力し、線路へ頭から落ちるような系統のものではなかった。彼の体は電車に相対するように大の字を描いていた。電車のハイビーム・ライトは男の描く大の字の影を無限大に拡大している。それは死を歓迎するようにも思えるような、堂々とした跳躍と広がりだった。スロー・モーション。

 プラットフォームのたくさんの人たちのふたつの目たちが、その視線が、男の影絵を射抜いてゆく。


 男の意識がこと切れる直前、彼の形を最後に見据えたのは車両の運転手であった。彼の紅潮した白すぎる顔を、意を決した昇天の跳躍を、しっかりと軽蔑するような、それでいて業務に従事する労働者特有の無機性をもった静かな顔で男をまっすぐに見返していた。そこには驚きが、一分として含まれてはいなかった。


 後記・・・初めて構成を意識しながら小説らしきものを書いてみました。長く文章を組み立てていくのは難しいなと思います。第一の読者たる作者として、研鑽を積まなければなあと、ぼんやり思う次第です。 綴