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凄まじきエネルギー 『二菩薩釈迦十大弟子』(1939年 木版) 棟方志功

人の制作物において、これはどえらいものをみた…という経験は今までいくらでもある。
これから勝手に“我がヒーローたちへ”と題し、そういう『どうかしてるぜ』(ほめてます)と感じたすごいものについて綴っていこうというわけだが、どちらかといえば知名度はある人や作品が多いかもしれない。ちなみにヒーローってのは特にたてまつる意図はなく『カッコイイ…』という意味です。あと、品評や考察はそういったことに長けた方々にお任せし、自分が感じたことを書くのみでございます。あしからずご理解いただければ幸いm(_ _)m

初回、まさにそんな中からあえて感じたことを表さずにはいられない一群の筆頭を選んでみた。それこそ、棟方志功の『二菩薩釈迦十大弟子』である。
ただ、マイナーというわけではなくても、この令和に棟方志功を激推ししている人物となると、まあそういないのではないか…とはちょっと思ったり。(もしいらっしゃったら、同志ということで笑)

以前、新聞の芸術欄に何となく吸い寄せられ、そこに掲載されていた『二菩薩釈迦十大弟子』が目に入った瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。

( ゚Д゚)!?!?!!!!!!!!!ズガーンナンジャコリャーーーーーーーーーーーーー

実物じゃないのに、紙面から風圧みたいなものを伴って何かが迫ってくる!一体だけでも相当なのが、文殊・普賢の二菩薩に加えてお釈迦様の十人の弟子、総勢12名様が居並んでおられる姿に、目は釘付け、脳みそは真っ白🙀
人生って何なんだ状態(どういう状態だよ)の若き乙女?だった自分にとって、あまりのドンッバババーン!!!!!さに気分が爽快になるほど率直にあんぐりしてしまい、それからというもの、棟方先生の追っかけに笑 残念ながら自分が生まれた時にはすでにこの世にいらっしゃらなかった人だが、愛は時空を超える(?) いまだに大ファンである。

これは完全に個人の感覚の話ではあるが、筆者はどちらかというとしみじみするよりは一瞬のはっとする印象が焼き付くほうで、そうなると、心の中のつまらない塵や残骸が消え去って、めでたしというわけ。

『二菩薩釈迦十大弟子』はまさに理想。ただ見ただけで何もかも消し飛ぶ、凄まじいエネルギー。(この十大弟子、まだ悟ってないはずなんだけど笑) 何か啓蒙しようだとか、癒してあげたいとか、そういう意識もない魂の塊。この作品がそうだったとして、むしろそれだけで十分存在意義があるように筆者は感じてしまうのだ。
なんと言っても棟方先生が釈迦十大弟子のことをそれほどよく知らずに制作したというんだから、知らぬが仏ってこのこと???右脳でぶっちぎってる人は、まあ一味違うよね笑

第二次世界大戦中、戦火がひどくなってきて東京から疎開するとなっても、生活必需品以外は持ち出すのが困難だったそうだ。最終的に十大弟子の版木は一計が案じられ、ロッキンチェアの添え木として無事疎開先へ辿り着く。そしてなんと家人が東京を発った翌日に当地は大規模な空襲に見舞われて、先生宅も燃え、他の様々な作品の版木は家財とともに焼失したという。
このエピソードを知った時は鳥肌ものだった。他の版木が戦禍で失われたことは本当に残念で、いまだに腹立たしい!ただ、十大弟子の版木が間一髪で難を逃れたのは、やはりそういう命運だったのか。空襲までよせつけぬとは…どうなってんだよ( ゚д゚;)

昨夏に放送していたEテレの日曜美術館『自然児、棟方志功~師・柳宗悦との交流~』の 録画を見返した際、日本美術界屈指のイケメン・柳宗悦先生が柳宗悦全集の中で、「棟方の絵は、美しいとか醜いとかの範疇を超えているといっていい。そこが彼の強み」 というようなことをおっしゃってる部分があり、まさにそれだよな…と激しく納得してしまった。 

彼が制作している時の姿は、いわゆる“無我”という状態に自分にも見える。ねじり鉢巻き(実際は“こより”だそう)で野性がむき出しの荒々しい雰囲気なのに、ある種の神聖さを纏っているのは、だからかもしれない。
理屈じゃない。なんかもう、なにしろ圧倒的にすごい💥


ほら……なんにもなくなったところから、再び生きる力が湧いてくる。

妙なもん見たけどなんか元気になったわ…というスポットを目指しています