弱いロボットの話

東京書籍の国語5年の教科書に
新たに加わった説明文教材に、
「弱いロボット」という文章がある。

私はこれがとても好きだ。

小学国語の教科書は
全国的には光村図書が強い印象があって
自身の小学生時代
光村で育った私は

東京書籍の指導書を手にした時に
カンジー博士がいないことや
ごんぎつねの挿絵が かすや昌弘 の版画調ではないことに
最初は少し戸惑いもあったけれど
東京書籍の説明文教材の選定は
とてもセンスがいい

と思うようになった。

弱いロボットの要旨をざっくりまとめると
(今手元に教科書がないので
うる覚えの範囲で)

私たちの生活の中に溶け込む数々の便利なロボットたちは
私たちの生活を格段に便利にしてはいるが

果たしてそれで私たちの心は豊かになっているのだろうか?

便利な中に
足りないものを探し出しては
何かに付けて
足りない、足りない、という動機をも生み出しているのではないだろうか?

という視点に基づき

「できないロボット」
つまり
「弱いロボット」が開発されている。

弱いロボットの具体例として

ゴミ箱ロボット等

が挙げられていた。

ゴミ箱ロボットは

ゴミを拾うことも掃除をすることもできないが
落ちたゴミの側にいって

人がゴミを拾って投入すると
ペコリ
と可愛くお辞儀をする

というもの。

(他にも雑談ロボットか何かあったけど忘れた)

私たちの暮らしを加速させ
不便を退治するようなロボットではないが

心にそっとゆとりを持たせたり
人と人とをつなげる媒介になったりするような

そんな「弱さ」の必要性の話でもあると思った。

私がこの文章から頭によぎったのは
人間の赤ん坊。

赤ん坊は弱くて可愛くて
何かをしてあげなければならない存在だが

人間の赤ん坊はすぐに大きくなる上に
育てるには重大な責任と人生を背負う上に
常に全てに対して向き合っていかなければならない(と考える人もいる)

重い重い存在。

その重さは命の重さでもある。

対してロボットには
生命は宿っていない。

私たちの生活のなかで
見失われていくほんの少し
余裕を持つ心を
都合よく「弱いロボット」たちが
呼び覚ましてくれるなら?

そんな都合の良いことはないのではなかろうか?

ロボットには感情も生命も宿らない。
その利点を都合よく使う術を
私たち人間は心の淀の解消にまで求め始めたのか、と

私にとっては斬新な価値観を与えてくれた説明文でもあった。

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