海の恋人(小説)

「せあ」
俺が声をかけるとせあは薄く目を開けてうっとりするように微笑んだ。夜、ベランダに子ども用のビニールプールを出して海水を入れては、せあを浸して月光浴をさせている。するりと手触りの良い足を折り畳み、できるだけ海水に浸るように。めっきり体の色が薄くなってきて、骨格や内臓が透けて見える。月の光りはほの青く、せあの肌をより病的に見せた。肌よりも白い骨の奥で動くもやがかかったような赤いものがとくりとくりと動いている。それが愛おしくて、せあを月光浴させる最初には、胸の少し左側に唇を重ねるようにする。肌が透ける前は、体に触れると恥ずかしそうにくすぐったそうにしていたくせに、今はもう嬉しそうに目をきゅっと瞑るだけだ。言葉を話すのも億劫らしい。脇腹に生える小さな銀色の鱗を撫でると、少しだけ頬を赤くしてやっと潤んだ瞳を見せた。
「だめ」
掠れた声もまた、愛らしい。
「なんで」
「触られるだけでセックスしてるみたい」
「もうずっと抱いてない」
「ふ……溶けたら、抱けないよ」
「そんなら溶けたあんたで自慰でもするよ」
「なにそのプレイ。見たい。拓海のイくところ、えろいから」
「じゃあ、抱かせろよ」
「しないんでしょ、優しいんだから」
せあの細い指が俺の腕に触れる。ぬめり気があるのは海水に浸かっているからだろうか。拓海も入る?と聞いてくるので足先だけを海水に浸した。せあは気持ちよさそうに目を瞑る。金色のような銀色のような不思議な色の髪が僅かな潮風に少しだけ毛羽立った。

砂浜で飲んだくれて砂まみれになっていた変なのと出会ったのはもう一年以上も前で、まさかこいつのために自分が海辺に引っ越してくるとは思わなかった。
仕事帰りの朝方、砂浜を歩いていると踏み心地が悪いものを踏んでしまい、ふと下を向くと人型をした大きなゴミだった。と思ったらそれは動いて、起き上がった。片手にはビールを持っており、聞いてもいないのに失恋をしたのだと泣き出した。仕事柄、酔っ払いの相手には慣れていたため適当に相槌をしていると人型の大きなゴミは泣きやんで、お兄さんありがとう、と大層嬉しそうに去って行った。

その日の夜、カウンターに立つと正面には見慣れない客がおり、俺を見てふふと微笑む。金色なのか銀色なのか、なんと表現していいのかわからない色の髪の毛と、同じ様な色の瞳。俺を見ている。
「お兄さん、今朝はどうもありがとう」
「はあ」
「覚えてる?今朝の、あたしだよ」
「砂まみれの」
「うん、ありがとうね」
人型だったゴミはちゃんと人間の姿形をしており、せあ、と名乗った。その夜、せあは俺の部屋にやってきて流れでセックスをし、そのまま居ついてしまった。俺が砂浜を歩いていたから海辺に住んでいると勘違いしていたらしく、店が終わって始発の電車に乗って街中へ帰り、マンションの五階の部屋についたとき、せあは服を脱ぎながらちょっと残念そうに笑った。

せあは海を好んだ。出身地も仕事もせあという名が本名なのかも知らなかったが、海が好きだというのは常日頃からずっと言っていたから知っていた。出会ったのは夏だったが、秋になっても冬になってもいつも海へ行きたがった。寒いのに服を脱いで入ろうとするから何度止めたかしれない。
「いいじゃない、あたし海が好きなの」
真冬、雪がちらついていた日も海に行きたがるので半ば喧嘩になりながら止めると、せあはそう言って頬を膨らませた。無学な俺では表現できない色の髪を揺らし、髪と同じ様にくるくると変わる瞳を濡らし、せあは言うのだ。
「あたしの故郷は海だもん」
「何言ってんだ」
「母なる海っていうでしょ?みんな海から生まれたのよ。拓海だってそうでしょ。名前にも海っていう字が入ってるじゃない」
「あのな、これは俺の親父とおふくろが海でセックスしてできたからついてるだけだ。あほなんだあいつらは」
「なにそれ、あたしたちも海でセックスしようよ」
「あんたも相当にあほだな」
「あほだから拓海に会えたのよ」
せあは俺を宥めるためでなく、心の底からそう言っているのだった。

せあは寝物語を好んだ。セックスをしてもしなくても、俺の体にぴたりと寄り添って心臓の音を聞くのが心地よいのだと言いながら、ぽろぽろと自分のことを語った。
「あたし、昔は海の中にいたの。今はこんな立派な足が生えてるけど、下半身は魚だったんだよ。あたしの姉様の姉様のうんと上の姉様が、人間に恋をして同じ様に人間になったの。そのとき、うんと上の姉様は声を失ってしまったそうなんだけど、あたしはちゃんと髪を伸ばして魔法を使うおばばに髪の毛を渡したら、おばばは私の声を失わずに人間にしてくれたわ。あたし嬉しくって、海から上がってからは毎日幸せだった。色んな人と恋をしたのよ。あたしは声があるからね。男の人はあたしのことをすぐに好きになってくれたけど、こんな体でしょう、すぐにどこかへ行ってしまうの。だから、あたし、拓海に会えたこと、本当に運命だと思っているわ」
せあの顔は恐ろしいほど美しかったが、体は男だった。滑らかな流線型をしていても、胸はないし股間についているものはついている。
「あんた、女になる気はないの?」
せあは、本当は女になりたいが体が男だから、逃げるためや自分を守るためにそういうおとぎ話を言っているのだと思っていて、それならそれで別にいいと思っていたから俺はそう問うた。一瞬の沈黙ののち、せあはきょとんとして瞳を揺らしていた。
「どうして?あたしはこれであたしよ?胸がない方が拓海にくっつくことができるし、モノがあるおかげで拓海があたしにつながることもできるしあたしが拓海につながることができるのよ?素敵でしょ」
せあはうっとりして、さらにひしと抱きついてきた。
「愛しあえるって素敵よ。海みたいに深い気持ちになれる」

そうこうしているうちに夏を迎え、そうしたら、せあの体が薄くなってきていた。最初は見間違いとかふざけてボディペインティングでもしているのかと思ったが、せあの肌は日増しに薄くなり、昼間にふと陽の光を浴びると、ガラスごしに陽を当てたような影が床に落ちるばかりになった。どうしたらいいのか慌てる俺に、せあは少し困ったように笑って、海に連れて行ってくれたらいい、と、言う。ならばと海のすぐ近くゆえに外壁が劣化しやすく水害の危険性が高いという、街中よりも少し安い家賃のこのアパートに越してきた。ビニールプールはその時に買ったものだ。せあはピンクがいいと言ったがホームセンターに置いてある一番大きいものは青しかなかった。プールを抱え、汗だくになって帰ってきた俺を見て、せあはまあ仕方ない、と笑った。

昼間はもう起きていられないといい、夜もうっすら目を開くだけになったせあのため、俺は夜の仕事をやめ、昼間にアルバイトをして陽が落ちたらせあをベランダのビニールプールに入れるようにした。だから大きなベランダのあるアパートにしたのだ。

「ねえ、ちゃんと海に入りたいわ」
せあはその日珍しくぱちりと目を開けて呟いた。いつものようにビニールプールに海水を張って浸かっていたのだが、思うところがあったらしい。せあは起き上がろうとするが上手く力が入らない。仕方なく背負って、上から濡らしたタオルケットをかけ、俺たちはアパートを出た。そういえば今日は海の日だったというと、せあは微笑む。
「海に帰るにはうってつけの日よね」
俺は返事をしなかった。

深夜、海はただ穏やかに寄せてはかえすばかりで、何もなかった。優しくも厳しくもない。波打ち際にせあを寝かせ、タオルケットをかけてやるとどこか顔色を良くして、せあは俺を見つめている。俺もデニムが濡れるのも構わず、横たわるせあの傍に腰を落ちつけた。すぐに腰まで海水に浸った。
「……なあ、人魚姫って王子に好きになってもらえなかったから、王子を殺すしか自分が生き延びる方法がなかったけど、それができなかったから泡になっちゃったんだろ?あんたは……」
「あたしのはただの寿命だわ」
やけにはっきり言うので、俺は見て見ぬふりをしてきた事実が丸裸になって転がって行ってしまったように感じ、急に心臓が痛くなった。
「あたしの王子様は拓海よ。拓海はあたしのこと好きでしょ。だからあたし、こんなにも生きられたのよ。拓海に拾ってもらえなかったらあたし、あのまま砂まみれできっと死んでいたの。拓海があたしを救ったのよ。拓海は母なる海ね」
「でも、」
「もともと、そういう風に聞いてたからいいの。人魚だったから、人間の体って合わないんだって。あたし、人間になれたってだけで十分楽しかったわ。色んな人と恋をして、最後にこんな素敵な人に会えたんだもの。幸せ……ふ、ねえ、拓海、心臓痛い?」
「なんで」
せあは相変わらず微笑んでいた。
「海を伝って拓海の心臓の音が聞こえる。ドキドキしてる。あたしのこと、抱きたい?抱かれたい?」
「そうだな、いっそ一緒に溶けたいよ」
「嬉しい」
せあの胸に唇をおとし、タオルケットの中にそっと手を忍ばせて鱗に触れた。せあは小さく震え、吐息を漏らす。

濃い潮の匂いと眩しさにさいなまれて目が覚めた。全身が海水に浸かっており、腹のあたりまで波が寄せてくる。勢いをつけて起き上がると飛沫が顔にかかり、あまじょっぱさが口に広がる。
「せあ」
横たわっていたはずの場所には、濡れそぼったタオルケットだけが波の動きに合わせてたまに位置をずらすばかりだった。
そうして俺の恋人は、海へと帰って行ったのだった。

END

#海 #小説 #短編