【読了】きらきらひかる/江國香織 著(2022/1/2)

私は、世の中というのはまったくよくできていない、と思った。都会の空にこそ星が必要で、睦月のような人にこそ女が必要なのに。私みたいな女じゃなくて、もっとやさしくてちゃんとした女が。——P.53


どれだけ未読本が積まれようとも、併読中の本があろうとも、1年の1番はじめにはこの本を読むと決めているので(たいてい元日か2日には)毎年この本を読むことになっている。

そして、この本を指標に、今、自分の感じていることや、それ以上でも以下でもない自分というものを認識する。

去年の記事はこちら。


これは別に、言わなくてもいいことなのかもしれないけれど、念のために断っておきたいことがあって、このインターネット上のアカウントで記事を書いている「わたし」と現実社会を生きる「わたし」は誰にも明かしていないというふうに以前書いたのですが、実は一人だけ伝えているのです。そして、たった一人であっても伝えてしまった以上はほんの少し、無意識レベルのセーブが心の中でかかっていて、よくみられたい、みたいな、そういうくだらない自意識が反映してしまっていて、それはよくないことだな、となんとなく考えていました。

それで、だけれども、どう考えてもそのお伝えした相手がわたしの考えていることを知りたいと思っているはずがないし、どう考えても読まれているはずがない(ゆきがかり上お伝えしたものの、むしろ1回もひらいたことないだろうな、たぶん)ということもわかっているので、よし、今年からはもっと気にせずどんどん書こう、よくみられたいという欲望をもっと消そう、と、そんなことも思いました。前書き終わり。


今日「きらきらひかる」を読んで浮かんだ言葉は「庇護欲」という言葉だった。昨年の記事を読んでみると、愛情のかたちであるとか、結婚という制度についてであるとか、そういうものにえらく意識が向いているなということがわかる。今日は「庇護されること」そして「庇護すること」にとても意識が向いているように思えた。


個人的には、インターネット上で意見を述べるとき、マイナスなことを書かないように意識している。もちろん、誰かのそういうものについて批判的な意味があるわけではない、ただ、なるべくは前向きに、ポジティブに、もちろん愚痴ることもあるけれど、基本的には謙虚に……。

後ろ向きなことや誰かの気を引きたいようなことを投稿することは簡単だと思う。そうすることで気持ちが紛れる人はやっていいと思う。でも、なかなかそれが難しかった。それは、前述した通り「どう考えてもわたしに興味ないだろう」と分かっていても「よく見られたい」相手である人の目が気になるからだと思う。それが知っている人であれ、知らない人であれ。

こういうスラングは好きじゃないのだけれど、あえて分かりやすい言葉を使うとするならば「メンヘラ」だと人々がすぐに言うことが極端にこわかったのだ。

「本好きの女なんて全員メンヘラだ」みたいなことを言う人もいるし、なんだったか婚活のWeb記事に「趣味は小説を書くことです、などとはメンヘラだと思われるので間違っても書かないように。実際はそうではなかったとしても、そういうことを書いた場合に相手がどう思うかを配慮できない人は結婚できません」みたいなことが書いてあって、憤怒するというよりかは妙に納得してしまった。

「小説を書いてる」ということが趣味なんて、結構めんどくさい女だろうな、と自分が男だとしても思うもん。

でもじゃあ「カフェ巡り」って書けばいいんだろうか?「お菓子作り」とか?カフェは並ばずに入れたらそれでいいし、バカ舌なので熱くて苦くてカフェインをキメられればそれでオーケーだし、キャラクターに模したケーキなども顔から容赦無く食べてしまうし、ホットケーキミックスですら失敗するこのわたしが……?

それで、だから、そういう、繊細アピールというか、傷つきやすいアピールとかいうものを、インターネット上であれ現実社会であれ、堂々としてしまうこと(あるいは結果的にそうなってしまうこと)が極端にこわかった。


実際わたしは自分を繊細だと思ったことはないし、そういう「不思議ちゃん」だとか「メンヘラ」だとか揶揄されてしまいかねない発言には細心の注意を払おうとしてきた。でもそれって、どこかで自分のそういう一面に気づいていて、それは「普通からの逸脱」であり「社会からの逸脱」であり「愛されないこと」や「受け容れられないこと」だと勝手に自分で押し込めていたのかもしれない、と思った。(というこういう説明をダラダラ書いてしまうあたりがめんどくさい女なんだろうな、と今思いながら書いている)


本作の話題に戻ると、主人公の笑子は、アルコール依存気味で、感情の起伏が激しく、ひどい鬱状態になることもあれば攻撃的に泣いたり、喚いたりすることもある。これは、表面だけをなぞれば「普通ではない」状態なのかもしれない。

でも、笑子の中には笑子の秩序があり、感情の網目がある。彼女の愛し方があり、愛され方がある。それを、そんな俗っぽい言葉でラベリングしてしまいたくはない。

今日、本作を読んだ感想は、ああ、こんなふうに庇護されたらとても気持ちがいいだろうな、と素直に思った。


笑子のように純粋な人間には、たぶん何でもないことなのかもしれない。でも僕はときどき混乱するのだ。笑子の無防備な言葉、安心しきったまなざしや笑顔。僕には縁のないはずの感情。笑子はどうしてこんなにあっさりと覚悟をきめられるのだろう。いままで大切にしてきたいろいろなもの、両親や瑞穂さんや、いままで愛してきたそういう人たちのいる場所から、こんなにどんどん孤立しつつあることに、彼女は気がついているんだろうか。————P.134


同性愛者である夫と、異性愛者である妻の間には性交渉はない。それでも、わたしの目には、笑子という女性は、睦月という男性に「庇護されている」と映る。そして、同時に、彼もまた彼女に「庇護されている」と思った。

「庇護されること」は心地よいだろうな、そして、「庇護すること」もまた、安心するだろうなと思った。

そしてそういう「庇護」があれば、別にこれまで築き上げてきたものすべてから遠ざかってしまうことも、捨ててしまうことも、大してこわいことではないのかもしれない、と。嘘をつくことなんて、ちっとも悪いことじゃない、と。

この作品にはそのような「社会から逸脱してみえるようなこと」「風変わりであること」こそが至極まっとうで、納得させられてしまう力がある。今年のわたしは、この作品を読んでそう思った。



いちいちそんなことは発信していないけれど、この数ヶ月間でめまぐるしくいろいろなことが変わり(主に仕事)今年の春に自分がどうなっているのかわからない、という状況で、結構(かなり)実は落ち気味だった。(もちろん表面上は変わりませんが)

だからなんかもう、シンプルに、利害関係なしの味方が欲しい、と思って、もっと欲張りなことを言えば、誰かに守られたい、と思ってしまっていたのだろう。大人だから、社会人だから、しっかりしていると思われているから、メンヘラだと思われたくないから、そういう数多ある理由から、そういうことは言えないのだけれど。

だからきっと今年は、睦月と笑子の「庇護すること」「庇護されること」にとても意識がいったのだと思う。危うくて、脆くて、あっけなく壊れてしまいそうで、いつも睦月に庇護されているようにすら見える笑子が、実のところ睦月の恋人の紺くんや、睦月の同僚とその恋人の医師たち(同性愛者)のことを庇護しているようにも見えたりして、なんだかそれもまた、いいな、と思った。

こんなふうに見られたい、あんなふうに見られたくない、というのを、いい加減卒業しよう。少なくともインターネット上くらいでは。


同じ本を毎年お正月に読むのはとても面白い。毎年違う部分が気になるし、毎年違うところで泣いたり、うれしくなったり、ドキドキする。物語の力というものを改めて感じる。


今年もどうぞ、よろしくお願いします。



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