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原発が爆発したんや

 あれは、結局誰の話だったのだろう。誰かのお父さんだったと思うのだけど、とある男性が当時は関西のほうで働いていて、1995年の阪神淡路大震災に被災した。そして突如の激しい揺れに襲われた男性は、とうとう福井の原発が爆発したんや、と咄嗟に思ったのだそうだ。

 これは東日本大震災を経てしまうとあべこべなようにも思える。地震が起きたから原発が爆発したのではない。原発が爆発したから地震が起きたのだ。これはつまり、原発という存在がわりと身近だったとある福井県民が育んでいた特殊な「物語」を暗示している。某有名シンガーが自曲の替え歌で「原発は安全なものだと騙されていた」と歌っていたのを御存知のかたもいると思うけれど、私達はそのシンガーが歌っていた「物語」とは明らかに別の「物語」とともに生きていた。東日本大震災の以前から原発は爆発するものだった。ミサイルで狙われるものだし、あとナトリウムは漏れるものだった。それでも危険性と経済的恩恵とを秤に掛けたうえで仕方なく受け入れざるを得ないものだった。因みにうちの実家は嶺北なので北陸電力の管轄である。福井県民だけど、私達の電気は福井の原発ではなくて北陸の水資源(北電の発電量構成は四分の一が水力発電)のほうに支えられていたりする。

 私は東日本大震災直後に関西の大学に進学し、恐らく福井の原発から電力を得ていたはずの土地に移り住み、大学構内とか梅田駅前に響いていた原発反対の叫びを聞きながら何だか「物語」が違っているなぁ首を傾げていた。彼等はどうやら福井に生まれ育った私達とは違う何らかの「物語」にずっと騙されていたらしかった。このような彼等の「物語」と私達の「物語」の決定的な齟齬は、例えば小説や漫画や映画のような「眼に見えている」作品によってもらたされたものではなかったはずだ。

 自分達が常日頃からどんな「物語」に晒されているのかを把握するのは、創作者にとってとても大事だ。その「物語」にちゃっかり便乗したほうがいい場合もある。或いは全く別の「物語」を提起したほうがいい場合もある。どちらにせよ、そういう意識を持たないことには、結局自分が晒され続けた「物語」を無意識のうちに劣化再生産するだけにしかならないだろう。影響を受けたくないから他の作品には触れたくない、と貴方はいうかも知れないが、とっくの昔にもう貴方は手遅れなのだ。

 私達はもう手遅れから出発するしかないのである。


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