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意向と動向

 例の作家の発言が炎上している。ただ以前からこの作家がTwitterとか新聞とか、挙げ句に芥川賞選評などで余りに偏った危うい発言をしていたのは(情報音痴な私ですら)既に観測していたわけで、なるべくしてなった事態という感想しかないのだけど、ここで指摘されているようにこれが「純文学」の問題として取り扱われて「いない」というがむしろ私達にとっては深刻な事態なのであった。

 芥川賞の選考委員というのは、文壇の大御所ともいうべき重要な立場であるはずだ。というのも、芥川賞受賞作以外の純文学の注目度が余りにも低く(例えば去年の谷崎賞が誰だったかなんて世間の話題になっていたか? 三島賞が誰だったかちゃんとみんな把握してる?)すなわちどんな作品を芥川賞に選ぶかという選考委員の意向が、そのまま現在の純文学の動向へと直結していくからである。知名度も売上も影響力も断トツであるはずの村上春樹がそれでも「文壇の大御所」ではないのは、彼自身が凄まじい影響力を持つ一方で、別に彼の意向が(文学賞などを通じて)純文学の動向に反映されているわけではないからでもある。

 少なくとも例の作家には、彼の「意向」が純文学の動向に影響し得るだけの権力があった。だから彼の露骨過ぎる「意向」の偏りは危険だと私は思っていた。勿論、そういう危険さはきっと歴代の選考委員においても存在したはずではあるけれど。それこそ某元都知事とか……

 確かに彼は現代純文学における大物ではあるし、何より今や文壇の大御所である。しかし今回の炎上では彼は作家ではなく、先の引用の通り、やたら大学教授としてばかり批判されていた。彼は現代純文学の大物としてこの地位を得たはずなのに、今やろくに現代純文学作家として見てもらっていなかった。彼の名前はどれだけ世間に知られている? そしてどれだけ読まれている? しかしそんな彼でさえ、現在進行形の純文学の動向に直接関与出来るのは間違いないのである。彼には純文学の動向に関与するに足る資格が本当にあったのか。彼にちゃんとその資格があったとして、彼等の「意向」によって選ばれている純文学を、私達は特に何も考えずに有り難く頂戴してしまっていて本当に良かったのだろうか。そういう問い掛けを私達は出来ていただろうか。

 そもそもとして、今や「言葉の主導権」を持っていたはずの私達の「意向」は、一体何処まで純文学を動かせる可能性があったのだろうか?


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