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小さくあり続ける

 大江健三郎が亡くなった。好きな作家……ではあったと思う。でも五、六作品しか読んでないし、最後に読んでから随分と時間が経ったから私が語れることなんて余りない。『芽むしり仔撃ち』が一番好きだった。

 Twitterのトレンドにも大江健三郎の名前が挙がっていた。それでふと覗いてみたのだけど、作品のことではなくて彼の政治的な態度とか活動に関する言及がずらっと並んでいて溜め息を吐いてしまった。私は大江健三郎について詳しくはないけれど、難解というよりは難読、かなり独特の癖のある作家だった。政治的な態度とか活動云々よりも、このねっとりとした癖の強い文体こそが大江健三郎の醍醐味だと思っていた。それこそ代表作のわりには入手難度が高くてかつ難読の極みみたいな『万延元年のフットボール』なんて、みんな本当に読んでいたんだろうか。いや、みんな読む気なんてあったのだろうか?

 私達は作家の作品なんて読んでいないのかもしれないと思う。残酷なことではあるけれど。

 私達は個別の作品ではなく、何らかの大きな物語を読んでいる。そしてその登場人物の名前が大江健三郎だった。大きな物語の意志にとって、ノーベル賞受賞作家という肩書きはとても魅力的であっただろう。でもその一方で、大江健三郎といえばずっと『個人的な体験』に拘り続けた作家であったのではなかったのか。私達は本当にそんな大江健三郎の「小ささ」を認めることが出来ていただろうか。かつての私は、そんな滑稽さをすら感じる大江健三郎の「小ささ」にこそ……特定のテーマやモチーフにくどくどと拘り過ぎる不器用さというか面倒臭さというか……興味があったように思うのだけど、もう思い出せないや。

 小さくあり続けること。

 大きな物語を語ろうとする意志はいつだって私達を読者としてではなく、登場人物の一人として取り込もうとしている。この大きな物語のなかでは、私達が心血を注いで書き上げた……それは私達が生き抜いたということでもある……「物語」はもう誰にも参照されたりしない。私達は筋書きに沿って解釈され、筋書きに従って動くのである。そしてもしも大きな物語に巻き込まれたくないならば……私達はなるべく小さくあり続けるしかないだろう。私達を囲い込もうとする大きな物語の埒外へとするっと逃げ込んで、私達だけにしか語れないことを語るしかないのだ。

 私はそんな小さな物語に「雑文学」という仮の名前を与えたいのである。


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