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野次馬の薄ら笑い


 純文学を書く作家達が、これは芸術なのだからごく限られた読者にだけ届けばいい、これは先進的なものだから限られた知識人やエリートにさえ読まれればいいと割り切ったうえで作品を書いているのなら、それを安易に否定することは私には出来ない。そうやって突き詰めなくては辿り着けない境地だってあるだろう。そうやって突き詰めるから「純」文学と名乗れていたという側面もあるだろう。

 けれど以前の記事でも書いたように、今や「言葉の主導権」が知識人やエリートからごく一般の人達にも与えられるようになり、そして純文学がなおも社会に対するコミットメントを標榜し続けようというのなら、純文学が読まれないという事態は極めて致命的になり得る。世間の人達にあんまり読まれてないのにどうやって社会に影響を与えるのだろうか? そうだ、例の作家は、まさにもうあんまり読まれない純文学作家の一人であった。もうあんまり読まれてはいないのに偉い先生としてメディアに求められてコメントしていたし、そして案の定、公に記録が残るような場所で危ない発言をして炎上した。

 作品が読まれない。作品が世間に流通していない。そうなればあとは、理念が無様に宙に浮いているだけである。例の作家の振る舞いは、純文学の大御所による、純文学の理念の発露として見なしていいものだっただろうか。彼のような危険な振る舞いを許してしまう程に純文学の理念は磨耗してしまったのではないのか。いや、ぶっちゃけ私には分からないのだ。実はちゃんと追っ掛けてないから。私はこんな「芸能スキャンダル」じみた炎上が鬱陶しくて、とっくに例の作家の名前をミュートワードにぶち込んでしまったのだから。そう、そもそも私には、今回の事件に何か言う権利など微塵もないのである。

 私はこの炎上に対して薄ら笑いを浮かべながら、権威ある人物の凋落を眺めている野次馬に過ぎない。

 そうだ、私もまた、純文学の大御所が起こした炎上事件を純文学の問題として追い掛けることを早々に放棄してしまったうちの一人なのだ。こんな稚拙な炎上を起こすのが大物純文学作家の仕業なのか、私達はもっと深刻にこの混迷した世界に向き合うべきではないのか、私達はこんな迂闊な年寄りどものことなんか無視してより深刻に現代に相応しい純文学の理念を更新していくべきではないのか、という憤りすらあんまりなく、ただ野次馬の一人としてずっと薄ら笑いばかりしていたのである。


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