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愛をこめて花束を

平日は午後2時から、日祝は午前11時からが面会の時間。




自転車で通った道は線路沿いをひたすら真っ直ぐ進む道と、川沿いを走る道があった。行きは人と車が混み合う線路沿いを、帰りは父の弱っていく姿に打ちのめされることがあるので広くて静かな川辺の道を選ぶ。お盆を過ぎてもまだまだ唸るような暑さの中、緑の草が生い茂る道、空を見上げると赤い夕日が何にも遮られることなく見ることができる。ただ夕日が沈む、自分の置かれた環境がとてもちっぽけに感じて涙腺が緩む。決して悲しくて泣いているわけではない。大げさかもしれないけれど余命宣告なく生きていることに感動しているのだ。5歳の息子とトンボの歌を歌ったり、時には自転車を止めて草むらに虫がいないか探したりした。息子は「じいちゃんいく道の川にはいっぱい虫がいるよね」と言う。息子を楽しませる事はもちろんだが、私の気分転換の方が大きな比重を占めているのは言うまでもない。


育ててもらっているのは紛れもなく自分だ。






今年2月、70歳の誕生日を迎えた父。体調不良で横になる姿にたまりかねて私は病院に連れていく事に。ずっと病院に行かずにいた父は自力で病院に行くことができないくらい弱っていたが、連れて行ってほしいとも言えなかったのだと思う。父と母は仲が悪く母が父の世話をする事はないので私もそんなに親の間に介入した事はなかったけれど病院に行けば何とか元気になってまた意思疎通をして夫婦が仲良くなるかもとさえ思っていた。


受けた診断はステージ4の癌。大腸を発端とした肺、肝臓、骨への転移。腫瘍は尿管も巻き込んでいた。こんなになるまで父はじっと耐えていたのである。去年の夏に仕事を辞めて自宅でゆっくりしていたが急激な痩せもあり確実に病は進行していたのだ。


重度の貧血状態で緊急入院する事になった。「お母さんに怒られるなぁ」こんなことばかり言う父に私はお医者様とも話し合い、はっきりとした告知はしないでおく事にした。自覚症状はずっとあったようなので「やっぱり大腸が悪いみたい。お通じさえあれば大丈夫みたいだから薬飲んで体力が回復するまで入院だよ」と言って入院。しかしせん妄が激しく、輸血で体力が回復した父は「家に帰る!」と病院から抜け出そうと抵抗するので退院して在宅ケアの選択をすることになった。

父は同じことを言ったり、言ったことを忘れたり、約束をすっぽかしたりすることが多く、母や弟からは苛立ちの愚痴ばかり聞かされた。かなり苛立って感情的に怒る家族の姿に耐えかねて私は父を認知症の検査に連れて行った。まだ重度ではないが3〜40%の診断を受けた。これでとやかくいう人間はいなくなった。

家に帰った父は今までの体調不良が嘘のようにシャキッとしており食事もきちんととり、病気が治ったのではと錯覚するような姿だった。倦怠感のある日と無い日と波はあるもののしっかり歩いてしっかり話す父にホッとする自分がいた。

しかし余命は1〜2ヶ月。癌患者は死ぬ直前まで元気という言葉もあり嘘のような本当のような不思議な気持ちで過ごしていた。私は朝から夕方まで正社員として勤務。保育園に息子を迎えに行き日々ワンオペ育児と仕事の両立に専念していた。しかし父が余命宣告を受けた時に父と過ごす時間は限られている事に気づき絶望的な気持ちになった。

昔から出不精な父とは旅行に出かけた記憶もなくろくに外食も共にせず、思い出がほとんどないのだ。

勤務規約に疑問を感じていた頃でもあり、いろんな要因が重なり私は4月で退職を決意。そして自分のペースで行動できることを選んだ。


それからはできる限り父と過ごすことになった。病院に付き添ったりランチを食べに行ったり。しかし少しずつ体は確実に弱り始めていた。歩くスピードが遅くなり、立ったり座ったりの動作がどんどん疲れるようになっていった。発熱する原因は誤嚥性肺炎。食べる事が困難に。それでも食べることが大好きなので意識もはっきりしているしまだまだ普通食である。母はいつも総菜やお弁当を父の食事として用意してくれていた。食事を用意してもらえるだけでもありがたい。もう母は業務的なやりとりでしか関わることができない状態だったのだから。


母を責めるつもりはさらさらない。ここでは「妻の立場」「娘の立場」で話をしても平行線なのだ。できれば親が子供に譲ってほしいところだが。父の威厳を保つ事に妻の力は大きいと実感。それをしない姿を見るとやるせない気持ちになる。家族だから遠慮なし、という態度は違うと改めて思った。


とにかく各々できる角度から介助をし、出来ない所は看護師さんに手伝ってもらう事にしていた。父にとって最善と思っても他の家族には不満になることもたくさんあったのだ。私は度々元気な家族から文句を言われたり怒られたりする事が増えた。私はケアマネさん、お医者様、看護師さんと毎日のように連絡しあって情報を共有するのだがもちろん父の快適さを求めるゆえの話。外野からそれらの行いをとやかく言われた時は「自分で機関に連絡し、不平不満を伝えてください」とお願いする事もあったが、自分から連絡する人はいなかった。見知らぬ人が自宅に立ち入るストレスは想像できる。しかし挨拶もせず歩み寄ることもしない家族の行動は異常だと感じる。介護に目を背けたりめんどくささを感じていてはどうしようもない。


「お父さんの家だから、文句があるなら出て行って。」母にそう伝えた。パート勤めの母が生きてこられたのは確実に父のおかげである。


幡野さんが言ってたな。病気になって怖いのは病気そのものではなく、人間関係だと。


私は窓口だがコマ使いではない。(本当は妻である母の役目だと思います)非協力的な発言をされても私は何もできない。次第に元気な家族とは距離を取るようになった。短いが父と質の良い時間を過ごすために。これは心の平穏を保つためにとても有益な行動となった。不平不満で心をいっぱいにするのではなく、はたまた時短や効率ばかり考えず、日々の暮らしを丁寧に、当たり前に感謝しながら生きることを心がける、とても素朴な日々の過ごし方であり非常に価値を感じられた。


ご飯を作って持っていたり、カフェオレを持っていったり。大好きなハーゲンダッツのアイスを食べたり。父が在宅中はとても幸せだった。父は「これはうまいなぁ」と言った。やせ細った体は総菜やお弁当は受け付けないらしく焼いた魚や炊きたてご飯には目を潤ませながら食べていた。もちろん食べる量はかなり少ないがそれでも嬉しそうに食べる姿に、人が食べるということは生きることだと心の底から思った。


父は更に体力が衰え、思うように体が動かせなくなっていた。排泄も徐々に自分では上手くいかなくなる。8月のある夜中、咳が止まらず苦しそうだと母から連絡があった。この時、訪問医療の主治医に連絡したが「訪問看護に連絡してください」と言われお医者様が来てくれることはなかった。母は最初にお医者様が断るなんて、、と動揺していたがそれほどの付き合いだったのだと思うことにした。電話に出たのはワーカーさんだったので電話での診察もない段階でたらい回し。そんな現実も受け入れなくてはならない。


訪問看護の方が来られ、なんとか咳は止まったが翌朝「入院したい」と父から要望があった。それは住み慣れた自宅では生きていく事がもう出来ない事を悟った父の最期の選択だったと思う。


医師と、ホスピスケアと、ケアマネさん。このトライアングルにはとても勉強させられる事が多かった。私は父へ「環境の配慮、質の高い生活」をテーマに掲げていたのだ。これを一番噛み砕いて理解してくださったのはやはり精神保健福祉士の資格のあるケアマネさんだった。


父に施す治療はない。では何が重要か。患者の今後に予想される悪い容態にばかりスポットを当てて話される事もたくさんあった。お医者様とはそういうものだが「看取り」について誰もが深く学んでいたらかける言葉も違っただろう。「治りません、よくはならないです」とおっしゃいますが、それは分かっている。それでも人それぞれだが何かに希望を持って生きるには最低限言葉選びは慎重に行わねばいろんな引き金を引いてしまうのだと勉強になった。


言葉運び次第でどんな薬よりも効くんだと思う。


なるべく患者の苦痛を和らげる事、家族の気持ちに寄り添う事、これが地域包括に大切な軸なのではと思った。育児と同じ内容が多いなぁなんて思いながら自分の人生の糧にしようと思った。


8月中旬、父が入院する事になった。私は用事があり、入院初日は母だけが父に付き添う事になった。私は2〜3日に一度お見舞いに行っていた。病院では差し入れが禁止されているので何も持っていくことはできないが毎回たくさん話をして帰っていった。


母は一度もお見舞いに来なかった。文句を言っては私に人格否定してくるほど噛み付いてくる弟2人とは距離を置いていたので入院は伝えていない。母にも弟にも思いや考えはあるのだとは思ったのでとやかく言わない事にしていた。私はただ、死が近づいた事に気付き、それでも一生懸命生きる父に寄り添い、少しでも不安が和らげば、と思いながら過ごしていた。


思うだけでは伝わらないことはたくさんある。心は見えないので言葉で伝えるべきである。伝える相手がいるうちに。とても単純なこと。


母は「お願いしますね」とだけ私に言い、匙を投げているように思った。「早く終わればいいのに、清々するのにな」とまで言っていたので流石に私は母とも距離を取るようになった。


どんな理由でも人の死を願ってはならない。



母と弟と距離をとった私はいつも面会は出来ない息子と2人で病院へ行った。息子は待合でおもちゃやタブレットで時間を潰す。私は喪主を務めるのは母だろうからお葬式には行かない事に決めていた。父が生きているうちにできることはたくさんしていてもう悔いはなかったから。不平不満しか言わず何もしない違和感だらけの家族とお葬式をする事に私は我慢の限界を感じていた。


父も日に日に「お母さん全然こないな。もう会いたくもないわ」とまで言っていた。でも本当は来て欲しいのだと感じた。しかし母は行く気がさらさらなかったので私は父に何も言えなかった。


他の患者さんはほとんど胃ろうや気管支切開で入院されている方ばかりだった。なので運ばれてくる食事の数は圧倒的に少なくて4人部屋だった父の部屋では父だけが食事を取っていた。9月上旬、ケアマネさんが「今の体調がいいうちに老人ホームに移ってもう少し日常に近い暮らしをしてもいいかもしれませんね」と提案してくださった。私はとても嬉しくなり、すぐにホームの見学に行った。ゆっくりできそうな素敵な設備に父も喜ぶだろうなと思った。父は自分の家には戻らないと決めていたのでホームの話をするととても喜んでいた。


しかし次の日、父は発熱し食事を摂らなくなってしまった。病院からは点滴に繋がれて食事なしとなっていた状態の説明は全くなく、ただ食べないから点滴に変えただけだと思っていた。父は私の顔を見るといつもほっと顔をほころばして「ようきたな〜」と言う。そしてその日も「お腹が空いた。何か食べたいな」と言っていたのだ。私は次の日、父の大好物であるジャムパンを持って行った。大好きなカフェオレもゆっくり飲み、パンも涙を流しながら喜んで食べていた。しかし前のnoteにも書いたように看護師さんに「絶食中ですよ!!」と怒られた。先が短い父に絶食とは、、、誤嚥性肺炎って父の寿命内で治るものなのか、、、私はもやもやを抱えたまま主治医から現状を聞く事にした。(勝手な差し入れは患者の命も落としかねないので禁止です)


17日、誤嚥して肺炎になってしまうとそれが死に至る事を説明された。「何も食べれないのでしょうか。お腹空いたと言ってますが、、」と言ったらお医者様は「もう食べれる状態じゃないですよ」と言った。症状はかなり悪化していたのだ。


18日、父は私の顔を見るなり「連れて帰ってくれー」と何度も言った。分かった、じゃあ私のうちに来たらいいよ、と言ったら父は涙を流して「ありがとう、世話になるなぁ」と言っていた。入院して一度も歩いたことのない父はもうおそらく歩く事は出来ないだろうと思った。しかし、【帰る場所がある】それだけでいくらか気は保てるかなと思った。父は私の手をずっと握っていた。血圧の低い父の手はいつもびっくりするくらい冷たくて、痩せこけた手はとても薄かった。


20日、親戚のお婆さんが亡くなった。享年92歳。父の叔母にあたる人で家族ぐるみで大変お世話になった方だっただけにとてもショックだった。父の死が近いと覚悟はしていたけれど、、、寂しい気持ちでどうしようもなくなり自分を保つのに精一杯だった。さすがに母もかなり落ち込んでいて私はお通夜の場所を聞き出し、母を連れていくことにした。


21日、病院に行くと父は喋れる状態ではなくゼイゼイと荒い呼吸をして意識が薄れていた。熱が上がっているけれど血圧がかなり下がっていて座薬を入れられないとのこと。もう話すことがさえできなくなっていた。私は父に叔母さんの事はとうとう言えなかった。



その日、母と弟に「お父さん、もうダメかもしれない。意識があるうちにきちんと会ってほしい」と初めて家族で病院に来るようにお願いをした。私の変な意地よりも父の母への想いの方がはるかに大切だ。


父は母がとても大好きだった。母は短気でいつもイライラしているので父はあまり喋らなかった。アンガーマネジメントのできない母の姿はあってはならないもので私は父よりも母の姿が不憫でならなかった。在宅ケア中もほとんど父にかけられる言葉はなく、ゾッとした気持ちは今でも忘れない。それは根に持つことではないが病気で思うように体が動かない、余命を宣告された人に取る態度としては如何なものか。


22日、家族揃って初めて病室を訪れた。ゼイゼイとした呼吸は落ち着いていたが全く話せなくなっており、目は開いているものの少し錯乱しているのか両手を何度も上に挙げる動作が見受けられた。起き上がろうとしているようだ。そんな様子は入院中一度もなかったので母に会えて少し興奮していたのか、他に意味があるのか分からなかった。問いかけには頷いたりするものの会話はできないので母も弟もまどろっこしいようだった。それでも「お母さんが来てくれて良かったね」と言うと頷いたのでよしとしよう。


その夜、叔母さんのお通夜に行く事に。こんな声かけも私が舵を取らないと出航しない。祭壇を前に叔母さんが亡くなった実感が湧いてきて、父も弱ってきているし本当に心が折れそうだった。胸に黒い重い大きなモヤがあり息を深く吸ってもそれは全然取れず次第に涙腺を刺激してくる。ぼーっと一点を見つめることで悲しみからは逃れられるものの、すぐに現実に引き戻された。


家族がアウェイで本当は心細かったのだと気付いた。母は何度も私にお礼を言った。「お母さんのためではなく、お父さんのためだから」この言葉は飲み込んだ。



23日は疲れがどっと出てしまい、猛烈な睡魔が襲った。半日寝たきりで過ごしながら私がダウンしてたらダメだなと思った。病院に行かねば、と思いながら体が全然動かなくてとうとう夜になってしまった。


夢を見た。底がない深くて暗い「下」と、どこまでも白くて奥行きのある「上」。自分はどこにいるのかは分からない。ただ上を見たり下を見たりの繰り返しでそれがどんどん遠退いてきて、いよいよ起きた。なんとなく清々しくてスッキリ目覚めた。


24日の午後0時過ぎ、病院から連絡があった。

「心臓の音が弱いのですぐに来てください」

私は母と弟に連絡し、息子を保育園に迎えに行き、すぐに病院に向かった。父はすでに息を引き取っていた。顔はとても穏やかだった。母が「お父さん、よく頑張ったね。よう頑張ったよ」と泣いていた。


呼吸が元々弱かったせいもあるが胸がなんとなく動いてるようにも見える。いつもの寝ている姿のような、でももう二度と起きないお父さんの姿。


父を支える番は終わった。次は母を支えなくては。


父からはたくさんのことを学んだ。子供の愛し方、感謝の伝え方、家族の大切さ。私はNASAの家族の定義が一番しっくりくると思っている。


直系家族→配偶者、子供、子供の配偶者

拡大家族→親、兄弟


私には配偶者はいないので、息子のみ。気楽なものだ。


もちろんきちんとお葬式には参列した。母も若くはない。








父の病名が分かった時、逃げるように仕事していてそんな時に仕事場でクラシックのミニコンサートが開かれた。その時流れたのが、Superflyの「愛をこめて花束を」と米津玄師の「Lemon」だった。私は涙が堪え切れず、バックヤードに駆け込みボロボロ泣いた。


何度も間違った道 選び続けて

正しくここに戻って来たの

巡り巡る時を超え いつもあなたの所へと

この心 舞い戻ってゆく

無理に描く理想より 笑い合える今日の方が

ずっと幸せね




お父さんへ

お父さん、この世での人生、お疲れ様でした。お父さんにとって人生とはどんなものでしたか?私とお父さんは人生の半分は口をきかなかったと言ってもいいくらい話すことはあんまりなかったように思います。ずっと思春期のような私にお父さんもなんて話していいか分からなかったよね。10年前、くも膜下出血でお父さんが倒れた時に父親の存在の大切さに気づきました。これをお父さんに謝ったら「そんなもんやろう」と照れ笑いした顔、忘れることができません。伝えることができてよかったです。それから、お父さんが生きているだけでありがたいこと、いつも身にしみて感じていました。「ゆうとは綺麗な子や」といつも息子を褒めてくれた事、語り継いでいきたいと思います。甘いものが大好きだったお父さん、私が焼いたチョコのパウンドケーキをとても嬉しそうに食べていましたね。7月にうちで食べたすき焼きの霜降りのお肉が気に入ってもらえて良かったです。みんなで食べるお鍋は最高だったね。そんな何気ない事が次から次へと思い出されます。本当にありがとう。ゆっくり休んでください。  

かよこ









切り分けた果実の片方の様に

今でもあなたはわたしの光







父の火葬が終わった瞬間に一通のメールが届いた。米津玄師のツアー当選メールだった。ずっと行きたかったライブなだけにお父さんの贈り物かなと思いながらまた、私の人生の平常運転ができそうだ。











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