見出し画像

老いの表情

母がまた室内で転倒した。
私はスピリチュアルを気にする人間なので、「また」とか「実現化を想起するような言葉」を使うのは封印したいと思っているが、だんだん溜まってきた思いをここに吐露しようと思う。

我が家は劇的ビフォーアフターに出れる程度の「危ない造りの家」だと、老いていく母の様子を見ながらこの頃思う。

地盤沈下で家が斜めになっているし、昭和の造りなので生活導線が家事をする者に合ってない。

母の転倒の原因はそれだけではないと私は思っている。

長年使ってきた体のバランスにより転倒しやすくなっている。

また、楽観的かつ強情な性格により、記憶力を留めておこうとしない傾向がある。

いや、その努力はしていると、母の様子を見ながら思うのだが、どうも私からすると「(間)抜けている」のだ。
要するに、頑張ってはいるけど抜かりがあるのだ。

以前母がよく、弱っていく妻を叱る夫をスーパーなどで見かけた時に、「あんなに叱らなくても」と言っていた。

が、私はその夫の心模様もよく理解が出来るようになった。

要するに、心配を通り越して、怒りになっているのだと思う。

不安を抱くこちらをよそに、変わっていく方は案外平気だったりする。そしてあっけらかんとして明るかったりする。

明るいことは良いことだ。家庭内をその場を照らしてくれる。

ゆっくり進むようで、意外と早い。亀のような私たちの毎日。

心配も不安も怒りも、何もかも私の中にある。

母にそれは関係あるようで、実は全然ない。

彼女は彼女の人生を歩むのだから。

そう思えば、まあなるようになるか、と「老い」の様子を眺める自分になる。

というか、「老い」認定をする私の色眼鏡を外せば、それだけで楽なのかもしれない。

※介護保険を使って手すりを付けるとか具体的なアイデアはあるが、母との話し合いをするうちに、どこらへんまでが「老いている」のだろうと、家族にとっては判断が難しいところだ。
年を取ると、人間って頑なになって、家族など近しい者には、大丈夫と答えるのは何故なのだろう。
(老いるということは)脳の萎縮であり、心のイメージ力の低下なのだろうか。
それは逆手に取ると、あっけらかんとして大袈裟に捉えなくなる、ということでもあるのだろうか。

つまり、私も含めて生きてる動物にとって、ずっと先にある死を迎えるために、徐々に心と体のネジを緩めていくことは、楽に老いや死に馴染み向き合うための自然の法則なのだろうか。

母に向き合いたいと思いながら、私の話しかける口調が厳しくならないように、説明が難しくならないように、と思うが、面倒くさがられると、くそーと腐心することもある。
それも、私の我がままなのよね。