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世界はここにある㊽  第三部 

 ロセリスト邸の一室でナオはじっとあるじが来るのを待っていた。
彼が来ればソファには座らず、必ず窓際の古いロッキングチェアに座るだろう。彼はアンティークとはいえ、そう高価ではないマホガニーの椅子が気に入っていた。その椅子に座り窓の外のブナの森を見ながら物思いにふけるのだ。彼が外へ出て行くことはほとんどない。年齢的に足が弱ったせいもあるだろうが問題は他にあった。しかしそれを知り我が事の如く彼をいたわるものはいない。なぜならそれをもう一人の彼が酷く嫌ったからだ。

 チャールズ・D・ロセリストは執事が押す車いすに乗り、ナオの前に現れる。今まで休んでいたのかガウンを纏い、薄い頭頂部の髪が目覚めの悪さを物語っている。この男が世界の半分以上を裏で操るロセリスト家の当主であると誰が初見で思うだろう。そんな男にナオは深々と頭を下げ、にこりとほほ笑んだ。

「チャールズ公…… でよろしいのよね? 起こしてしまったのかしら? こういう形でお目にかかることがそうは無いので、間違ってたらごめんなさい」ナオは当主に近づき車いすの側に跪くと、彼の左手を優しく両手で包んだ。
「ナオ、外は冷えるようだが、お前の手は暖かいな」
「お屋敷の中は暖かいですから。それにお忘れかもしれませんが私はまだ子供です。大人のあなたよりは体温も高い。ほんの少しではあるけれど……」
「年寄の私は血の巡りも悪いとでも言いたいか?」当主は右手も温めてくれとナオの手をとる。彼女は彼の両の手を包んだ。ナオの手には余る大きな手が温まっていくのを感じる。

「ほう、孫に手を温めてもらっているのか? チャールズ」
「ジェームス様? いらしたの?」
 ナオは手を包んだまま、意地悪そうな問いかけに小首を傾げて訊ねた。
「わしはずっといるさ。お前はチャールズにばかり優しくする」
 包まれていた手はナオの手を振り払い頭を乱暴にかきむしる。

「チャールズ公が私をお呼びになられたんです。ジェームス様もお話があるのでしたらば勿論お伺いしますわ」
「チャールズ! 用があるなら話せ。口出しはせんよ」
 ジェームスはそう言って黙った。頭を搔いていた手はパタリと彼の膝の上に落ち着いた。当主の顔から険しさが遠のいた。

「チャールズ公、ご用件は」ナオは彼の様子を伺いながら尋ねる。
「ナオ、この様子ではそう先は長くない…… 臨床実験の段階に移れんのか」
「チャールズ公、お気持ちは承知しております。けれど今はまだ確信が得られていません。今、これを実験することはチャールズ公を廃人にする可能性が大きいのです」ナオは結論を隠さずに言った。

「チャールズとジェームス…… 二人がわしの中で生きている。昔はジェームスがいた時、私は眠っているようだった。しかし今は、お互いの存在をお互いが理解している。完全に二人の精神が一つの脳を共有している。常に二人いて、どちらかがイニシアティブをとっている。解離しているものを1つに合わせたのではなく、2人だ。随分と前から……」

「貴様! チャールズ! わしのせいとでも言いたいか! 今まで汚れた決断は全てわしがしてきた! お前は金儲けしかできんだろうが! それもわしが抵抗する者たちを排除するようにしたからではないか!」
ジェームスがチャールズの言葉を遮るように顕在化する。

「どちらにしても」ナオは彼ら・・の手を無理やり押さえて続ける。
「フラクタルの技術がお二人を併せるのか、完全に分離し一人を消滅させるのか? 精神医学とフラクタルが持つ特性とはそもそも違うと認識しています。私があなた方二人を変えてしまうことも」
「それがいい……」チャールズが呟く。一転してジェームスは「バカなことを」と言った。
「貴様の好き勝手にはさせん。お前はわしを無視して何も行動ができないのだ! わかってるだろう? わしと2人で物事を進めるしかないのだ」
 ジェームスがそう言い終わると当主は頭を抱え込んだ。
「ナオよ…… いや、お前には無理だ! ナオ、そんなことより計画は進んでいるのか」

「計画は順調に進んでいます。近いうちに日本へ行きます。そこで私の足りない部分を探すつもりです」
「足りないとはどういうことだ?」
 どちらかわからない当主が訊ねる。
「私を安定させているのは何か? これがとても重要なのです。元のペアである人を探さねばなりません。この部分を高山教授は私に情報公開していません。一切のデータが隠されている。しかし日本には何かしらの痕跡が残っている筈、そしてフラクタルのカギになるもう一つの遺伝子を持つ人物もたぶん日本人の筈。これを調べなければなりません」

「そんな調査なら他の者を使えばいい。簡単にわりだせる。難しければタカヤマから聞き出せば済む話だ」
「日本は今も地政学上、重要な国です。私は日本に拠点を1つ作ろうと考えています」
「ふん、好きなようにしろ。日本など米国から圧力を加えればどうにでも転ぶものを……」
「日本にはそんなに重要な人物がいるのか……」
「私が今後生き延びられるかどうかはその人物が生存しているかどうかによります。私はいまだ完全ではありません。高山教授がいて下されば安心なのですが」
「あいつはもう役にたたんだろう。ドクター・ブリュスコワで十分だ。お前自身もすでにタカヤマを越えている」
 チャールズと思われる当主がそう言った。
「タカヤマはヒスマンのところにいる。奴はタカヤマをロシアに売るつもりだ」ジェームスと思われる当主がすかさず言う。

「とにかくお前はフラクタル計画を始動する為の準備を続けるのだ。それ以外のことは必要ない。ロシアに…… ヒスマンに先手をとらせてはならんのだ。わしもそのための策は練ってある」
 ジェームスと思われる当主が続けて言った。
「策というのは?」
 ナオは尋ねたが当主はどちらもその問いには答えなかった。

 ロセリストの当主は執事が車いすを押し部屋を去った。ナオは窓際のロッキングチェアに腰を下し背を揺らせた。窓の外は先ほどと変わらないブナの森が拡がっている。

 当主が何かを隠しているのは以前からわかっていた。だがナオはその答えに興味はなかった。ナオの疑問はなぜ高山が自分を助けに来てくれないのか。なぜまた自分と同じクローンを誕生させたのかだった。その答えを知るにはルーツを知らなければならない。自分が生まれた本当の理由を知らなければならない。理論的にはすでにわかっている。自分は単独では存在できない。だが元の人間も同じはずなのに、どうして一方は今まで通り、普通の人間として生きれるのか?フラクタル、自己相似の連鎖はお互いにそれがなされるはず。その秘密を自分はまだわかっていない。それを知っているのは高山教授だけ。そこに自分が知りたい答えがある。

 高山教授がロシアに売られる。そう当主は言っていた。ロイ王子を助ける為にクローンが誕生した。そのクローンをロシアに売り渡したのは高山教授だと教えられた。話の辻褄は合うように思えるが自分が知っている高山教授はそんな冷徹な利己主義者ではない。私を命がけで守ろうとした人だ。ここにも隠された真実がある。

 自分の能力や知識だけを切り売りした実質はロセリストの秘密組織を自由には運用できない。自分の意のままに活動できる別同隊が必要だとナオは考えた。幸い日本に拠点を作ることに彼らは同意した。『ダヴァース』はこうして生まれたのだった。

☆☆☆☆☆


「ポール、彼女が動き出す」
「動く? 何があった?」
「彼女は近々に日本へ行く」

「日本? どういうことだ? 日本でなにをするつもりなのだ」
「組織の日本での拠点づくりの為という話がある」
「日本の情報などいくらでも手に入るはずだ。わざわざ拠点にするとは何か魂胆があるのか?」
「彼女は自分のルーツを探ろうとしているのかもしれんが…… そんなことよりも彼女に独自の組織を持たせるのは問題がある」

「何が問題なんだ? ドクター・ブリュスコワ」

「ワクチンデータの改ざんだ。彼女のデータベースには私が改ざんしたデータが入っている。もし、彼女が日本で組織を立ち上げ、別のデータサーバを使いデータをやり取りしだすと改ざんがバレる」
「ハッキングしてそのデータも改ざんしてしまえばいい」
「そう簡単ではないぞ、ポール。彼女の実力はお前の抱えているハッカーなど足元にも及ばん。今はワクチンに使われたフラクタルに彼女のカギは入っていないことになっているが、彼女がそのカギに気付けば計画の目的が医療ではなく『選民支配』だとすぐに気付く。まだ私は彼女なしでフラクタルを自己増殖させ、クローンの支配をする技術を完成できていない。まずいことになるんだ」
 ブリュスコワは自分の立場も危うくなることを匂わせそう伝えた。
「こちらにはタカヤマがいる。お前がつぶれても問題ない」
 ポールは冷たく言い放った。
「なんだと、俺を切るというのか」
「そうは言っていない、万全を期すのが私の仕事のやり方だ」
「俺を裏切るな、一蓮托生なんだぞ俺達は」
「まあ、いい。不必要に動くな。墓穴を掘るだけになる」

「わかった。それからもう一つ」ブリュスコワは不満げにそう言った。

「なんだ」
「ロセリストがどうやらロイ王子の暗殺を企てている。もしくはロイのクローンを」
「何! それは確かか?」
「確かだ」
「わかった…… この情報には感謝する。引き続き暗殺テロの情報を頼む」

 ポール・ヴュータンはブリュスコワからの連絡を切った。まずはこの対策を考えねばならない。ナオのことは後回しだ。
ヒスマンの当主の言葉が脳裏をよぎる。
「気味の悪いクローンの跡取りなどヒスマン家には必要ない」
ポールは非情な計画を企てる。



 ㊾へ続く


★この作品はフィクションであり登場する人物、団体、国家は実在のものと一切関係がありません。


エンディング曲


Paint It, Black (Official Lyric Video) The Rolling Stones


世界はここにある①    世界はここにある⑪   
世界はここにある②    世界はここにある⑫
世界はここにある③    世界はここにある⑬
世界はここにある④    世界はここにある⑭
世界はここにある⑤    世界はここにある⑮
世界はここにある⑥    世界はここにある⑯
世界はここにある⑦    世界はここにある⑰
世界はここにある⑧    世界はここにある⑱
世界はここにある➈    世界はここにある⑲
世界はここにある⑩    世界はここにある⑳

世界はここにある㉑    世界はここにある㉛
世界はここにある㉒    世界はここにある㉜
世界はここにある㉓    世界はここにある㉝
世界はここにある㉔    世界はここにある㉞
世界はここにある㉕    世界はここにある㉟
世界はここにある㉖    世界はここにある㊱
世界はここにある㉗    世界はここにある㊲
世界はここにある㉘    世界はここにある㊳
世界はここにある㉙    世界はここにある㊴
世界はここにある㉚    世界はここにある㊵

世界はここにある㊶
世界はここにある㊷
世界はここにある㊸
世界はここにある㊹
世界はここにある㊺
世界はここにある㊻
世界はここにある㊼


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