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死を悲しく受け止めたくない 死は新たな生への出発

誰もが避けて通れないことといえば、生老病死です。でも、私は死を悲しいものとして、受け止めたくないと思っています。

死は次の生への新しい出発と、受け止めています。だから、今までよく頑張ったね、お疲れ様!また会おうね。という気持ちでいます。

肉体は亡くなるけど、魂はまた生まれ変わり、どこかで再会すると信じているからです。

この間、愛犬が亡くなったときも、義理の母は「この子は女の子だったから、次に三男の孫として、女の子で生まれてくると思うのよ」と、笑顔で言った言葉に、私も同感しました。

たとえば、テレビのスイッチを切ると画面は暗くなりますが、テレビも電波も存在し続けているわけです。スイッチをまた入れれば、テレビがつきます。生死とは、それと同じことなのではないかと思うのです。

ちょっと休憩して、また生まれ変わってくる。

なぜ、このようなことを書いているかというと、昨日、お世話になった近所の方が、58才でガンで亡くなったのです。まだお若いので、残念だし、寂しいですが、最後まで気丈に振る舞っていて、本当によく頑張って今まで生きてきた姿を見てきたので、心から「お疲れ様でした。少しゆっくり休んで、また会いましょう!」と、お伝えしました。

そして、最近は同年代のお父さんが亡くなったり、有名人も昭和全盛期にご活躍されていた方々が、どんどん亡くなられていって、時は流れていると感じます。でも、「お疲れ様でした。ありがとう」という思いでいます。

どんなことも、悲しく受け止めようと思えば、どこまでも悲しく受け止められるように、自分が受け止めたいように受け止めればいいと思うのです。

私は死を終わりではなく、次の生への出発と受け止めたいから、そのように受け止めています。

そして、人は生きたように死ぬということも、最近感じるようになってきました。昨日亡くなった近所の方も、アッサリさっぱりした性格の方で、最後は本当にアッサリと亡くなりました。

弱っている姿を見せず、弱音も吐かず、心配かけないようにと周りに気をつかい、飛ぶ鳥跡を濁さずという感じでした。

とても気が強く頑固だったおばーちゃんは、最後まで凄い力で手を握り返し、痛みを訴えることなく、最後に会ったときも力強い眼差しでした。

40過ぎると葬式が増えて、思ったより人生は短いということを感じるようになりました。だからこそ、やりたいことはやろう!どうせなら、自分が生きたいように(できる範囲の中で)生きようと、ますます思うようになりました。

でも、主人の祖母は現在100才で元気に生きています。50過ぎまで病弱だったそうなのですが(笑)、本人いわく「100年生きるのも、しんどいわよ。あちこち痛いし、みんないなくなっちゃうし。それにしても、自分がこんなに生きるとは思わなかったわぁ」と言って笑い、今欲しいものは「お金」と答えていました(笑)

「もうお金の使い道はない」と、言ってたのに、100になっても、お金は必要なんだなぁと。施設代がかかるので、それを心配してるのかもしれませんが…

でも、昔のことは覚えていても、嫌なことや昨日のことはすぐに忘れて、いつも笑顔でいる姿を見ると、100才の境地は無駄に悩まず、今に生きていて、幸せそうに見えます。

私も毎日が子育てとの格闘で修羅場ですが、穏やかな気持ちで笑って過ごせたら最高だなぁと思いつつ、過ごしています。子育てが終わったら、そうなれるのかなぁ。いや、子育て中こそ、笑っていたいなぁ。揺れ動く心。。すべては私の心ひとつ、自分次第ですね。