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村上春樹小説に漂う〈愚者崇拝〉

知人のAの話をしよう。Aは極めてエキセントリックなたちで、僕はAについて書いているうちに、まるで小説世界の人物のことを書いているような気持ちになる。じつのところ、そうであってもおかしくはない。

xenophobia/ 外国人嫌い/ という単語がありますが、その亜種として、シダ植物嫌いがあるのじゃないか? Aは、シダの類が繁茂するのを極度に憎み、刈り取って回る。Aはほかにもイノシシが嫌いで、戸別訪問する宣教師のグループも嫌いだ。Aにとっては、外国人も、シダ植物も、イノシシも、宣教師もすべて自分のテリトリーを侵犯する異種だ。

異種をこわがる気持ちは子どもの頃には誰にでもあったと思う。僕にも、もちろんあった。粗野なクラスメイトたちは、まちがいなく僕にとって異種であり、怖かった。それでも成長するにつれて、怖いものは減っていったはずだった。僕じしんはシダ植物は怖くないし、むしろアイビーの鉢植えを買ったりさえする。イノシシについては、もうあきらめている。防ぎようがない。戸別訪問する宣教の女性たちに話しかけられたら、丁寧に彼女たちのすすめを断る。

で、Aの憎悪と恐怖の入り混じりは毎度すごいのだが、Aの恐れの根底には「放っておくと大変なことになる」とか「生活が脅かされる寸前まできていて、とても安穏としておられぬ」という、サイコサスペンスめいた心情があるように見えるのだ。

で、おおかたの恐怖を克服したかに思えた僕だが、ほんとうのところ、Aの存在は怖い。Aの憎悪が間接的に僕へ向けられているように感じるからだ。「安穏として、平気でいられるお前こそが、異常だ! そのうち、シダにぎゅうぎゅと締め付けられて脱出できなくなり、宣教され続け、イノシシに踏み荒らされるに違いない!」と宣言されているように思える。僕にとってはAの汚言めいた予言こそが、異種であり、こわい。

強迫観念に駆られているAを見ていて、ふと思ったのは、Aは世間一般というか、メディアというか、流布しているミームがリアルな人間の形をして僕の近くに現れているわけだ。ミームたちは「あなたは何ともないんですか? こんなに諸々もろもろたいへんな状況なのに!」と僕をゲリラ豪雨のように攻撃する。さっと来てはさっと去り、またさっとやってくる。

というか、今気づいたのだが、僕は深いところでは、Aの恐れは真正しんせいではないと気づいている。Aの恐れは本当は、渇望だ。誰かに言いたい! という渇望。とにかく誰かに言いたい! という欲望。

それでもし僕が近くにいれば、Aは僕に対して、ロシアのユロージヴイのように、なり振りかまわず神託めいた言葉を放つ。

と書いているうちに、Aはもはやリアルな人間であることを止めて、小説世界の人物になっているような気がする。もともと、極度に異化されていて、バケモノめいているし。

で、僕はなぜだかロシアのユロージヴイ(男)、ユロージヴァヤ(女)という〈愚者〉的存在に惹かれていて、先だって書いた小説にも登場させたんだけども、亀山郁夫先生の『ロシア 闇と魂の国家』という本で「ロシアは大審問官を欲する」という章を見つけて、そうか! と納得がいく気持ちになった。村上春樹の小説にも、傲慢ごうまんで不敵な愚者、もしくは反転して知性をひけらかす人物が出てくるが、僕がA氏に感じるのもこのロシアっぽい(ざっくりしすぎな表現ですが)食えない●●●●感じなんですね、たぶん。

友達にしたいかと言えば、あんまり近づきたくないし、恐れてもいるわけですが、なぜか惹きこまれる奇妙なカリスマ性がある。いや、文字通りこわいですね。

話がとんで恐縮ですが、僕としては、言語化不可能に思えた不気味な気分が、ずいぶん文章にできて、かすかに清々しい気分です。

亀山先生と佐藤優氏のこの本はおもしろかった。ロシアの〈食えない感じ〉と信仰心という組み合わせの妙について密度の高い対談がされています。


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