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食べてもらうしあわせ

最後に母が作ったものを食べたのはいつだったのだろう。
料理好きだった母が、料理をしなくなり半年近くが過ぎた。正確にはできなくなって、だが。

今でも私たちが「お母さん、このキャベツ切ってくれる?」「これ菜箸で炒めてくれる?」とお願いする形で作業をしてもらうことはある。
すると、迷いなく手は動く。何十年やってきたことだ。体が覚えている。

料理をするということは、思っている以上に様々な段取りや手順があることにも気づく。

いつかの実家モーニング

人間には、食べる幸せのほかに、食べてもらう幸せ(食べさせる幸せ)があると思う。

何の因果か、都内でカフェを営んで8年が過ぎたが、ここまで続けてくることができたのはひとえに「食べてもらう幸せ」があったから。それに尽きる。
飲食業の苦労を書き始めたらキリはないが、それでも、お客さまが「おいしい~」と言って笑顔で食べてくれると、全て(ではないにしても笑)が報われるのだ。

人が美味しそうに食べている姿をみるのはとても幸せで、安堵感とともに、なんともいえない満たされた気持ちになる。
子育て経験のない私たちは、思いがけずそんな形で日々、誰かに食べてもらう体験をしているわけだが、食べものを(作ることに関しては別だとしても)与えることは、人間の本質的な喜びなのかもしれないな、と思う。

思い起こせば、小鳥を飼っていた時、一番幸せな瞬間は、美味しそうに食べている姿を見守ることだった。これは食べてもらうというよりは「食べさせる」幸せ。思い出すだけで胸がキュンとなる。

「食べさせる」の場合は少しニュアンスが違って、相手が弱かったり小さかったりして力がなく、こちら側にその力と責任があるような状況。
ただ食べてもらうこととは少し違う感じ。

最近も、庭に地域猫が来ると、無責任なことをしてはいけないと思いながら、ついつい何か与えたくなってしまう。

いつかの愛鳥ばなちゃんとサツマイモ

以前の母は、私たちが訪れる時、食事の支度をして待っていてくれた。ほんの半年前くらいまでのことだ。
たまに行くわけでもなく、週に一度必ず訪れているのに、仕事で疲れているだろうからと、毎回ごちそうを作って待っていた。娘も婿も50代の中年だというのに。

私たちはカロリーやコレステロールを気にしながらも、時には食べたくない時があっても、どうしてなかなか、それを拒むことができなかった。
料理することが老いた母の、その時の唯一の喜びかもしれないと感じていたから。
私は母に幸せでいて欲しかったのだ。

母の生活から料理がなくなり、私たちもついに食べ過ぎから解放された。
ハートは寂しくても、身体はホッとしている。

昨日、母にベランダのメダカに餌をやる仕事をお願いした。
「よく食べてるね。かわいいね」と母に声をかけたが、反応はなかった。

そうだよね、もう十分だよね。
母は食べさせる幸せを味わい尽くしたのだろう。

さて、来週は母に何を食べてもらおうかな。

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