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Rhapsody in beautyと美しさへの愛

この文章を書き始めたとき11時11分だった。サインだと言えるかもしれない?とうとうかけがえのない存在のノーベンバーズについて話せるようになった気がする。しかし、正直言って、私はどんな時でもノーベンバーズなら十分な準備はできない感じもある。
やはり何かが身近ければ身近なほどそれに関する話をするのは難しいじゃないだろうか?

初めてノーベンバーズを聴いたとき五年前の9月23日であった。「Hallelujah」というアルバムは発売されたばかりで、Dir en greyの京さんは短いレビューを書いたそうであった。あの頃の私はDir en greyの大ファンだったので、Dirの活動や更新を集めていたアカウントを毎日熱心に読んでいた。だからあの日ノーベンバーズを初めて知った。「Hallelujah」のアートワークがどれほど心を打ったのをまだ覚えている。あの鮮やかな色、あの描いた風景、鳥羽史仁様の用筆の美しさ。ずっとヴィジュアル系ファンの私はああいうことを見たことがなかった。
ヴィジュアル系はただ別の美意識を映し出すと思っていた。ダークなイメージ、凝った衣装やメイクや髪型といった「ヴィジュアル」の要素は確かに優勢がある。
しかも、ヴィジュアル系の美意識がアルバムやシングルのジャケットという点から現れると言えるだろう。例を挙げると、Dir en greyの「Vulgar」、あるいはRouageの「Mind」、あるいはゴシックなイメージと言えばMalice Mizerの全作品。不透明な理由で、こういった作品のジャケットが十代の私にはヴィジュアル系の梗概であった。以上述べたバンドはそれぞれ別のヴィジュアル系の流れの象徴だと言えるのに、私自身が言語化できない共通のアンダートーンが感じられる。ヴィジュアル系のジャケットは全て美的感覚でいっぱいであっただけでなく、ある審美眼を目指した。
そのときまで自分が慣れていた審美眼はガゼットの反逆の破壊力(要すると、パンクの姿、奇妙な装いといったものなど)、Dir en greyの惨たらしい動画、暴力や社会への恨みの力、あるいはBUCK-TICKの「エロス対タナトス」という永遠の紛争とその臆面もないセンシュアリズム、Malice MizerやLareineのバラ色の空想、Luna Seaのネオロマンチックな世界観。作者として、そして十代の少女として、私は自分の性格、自分のスタイルをあの色々の美意識を通して探していたのだけど、あの中に自分を完全に見つけられなかった。

この前振りは少し長くなってきたのは必要だったと思う。なぜかというと、これなしでノーベンバーズの大切さは理解できないだろうから。
あの日「Hallelujah」を聴いて、楽園の門が目の前で開いてくれたかのようだった。最初の曲は同名の「Hallelujah」というのは聞いたことがないものであった。五年前は日本語が全く出来なかったので、歌詞をあまり気にならなかった。作者として、歌詞に心を用いる人なので、本当に気になっていたのに、ネットで調べても見つけられなかったため気にしないことにした。ヴィジュアル系バンドの訳した歌詞データベースがあったのだけど、ノーベンバーズはヴィジュアル系バンドじゃないし、見つけられた歌詞は全て日本語で書いてあった。
これが事実であると、せっかくやっぱやめなくちゃいけないわと思ってしまった。それにもかかわらず、「美しい火」、「あなたを愛したい」、「ただ遠くへ」といった曲は若い私を体感できていなかった愛の夢幻に沈ませてしまった。
ボーカルの言葉が分からなくても、美しいメロディーと幻想的な声はこの私を天界に連れて行きそうな感じであった。光が溢れる世界。私は泡の中に生きていた。
いつの間にかもっと聴きたくなった。もっと知りたかった。それですぐに全作品にのめり込んでしまった。実はどの順番にアルバムを聴いたか覚えていないけれども、「Rhapsody in beauty」を聴いたとき心が張り裂けてしまった。絶妙なノイズの海に沈むように。小林さんの心の底に沈むように。自分の心の底に沈むように。

そうして、初めてシューゲイザーに伝わった、ノーベンバーズが純粋なシューゲイザーバンドではなくても。
「Rhapsody in beauty」は私の全てのきっかけだった。小林祐介という存在はかなり解せないと思ったという理由で、信じられないほど彼に惹かれていた。日本語が出来なくても、まだ今ほど音楽が詳しい人ではなくても、もう小林祐介が天才だと分かっていた。
私はできるだけ安っぽい成句を避けるようにしたいと思うので、自分の言葉でノーベンバーズの全員の壮大さを表現するようにしていく。ちゃんとできるといい。小林さんの声は最初からやはり天使のように聞こえていた。あの姿も空気のような美しいと思った。
ヴィジュアル系服装に慣れた若い私はシンプルな服飾を好んで活動していた男性に少しびっくりしたのを覚えている。そして、「Rhapsody in beauty」の全曲を聴いて、小林さんの声は違う感じに浸透された感覚があった。「Xenakis」の雲を超える天来のボーカリズム、「Sturm und drang」の音の海に沈む悲鳴、「Romance」の裸のボーカルは美しい景色を描いてしまう。「Rhapsody in beauty」の中、声は楽器と共に筆になって青磁色、緑青の色合いで不明瞭な風景を生む。
「Rhapsody in beauty」はノーベンバーズのシューゲイザー経験の縮図だけでなく、世界音楽歴史上最も美しい制作の一つ。「Rhapsody in beauty」は四人の気持ちを込める宝石。このアルバムを聴き終わったあとには、私が生まれ変わったかのようだったと言って差し支えない。同名の「Rhapsody in beauty」という曲の方が心を打った。日本語が少しだけでもわかるようになった時歌詞を読んで光が目に入って血の代わりに流れていた感覚があった。ギターのディストーション、ホワイトノイズは波になって、漂流者になった聞き手を揺らして心の中でも深く響く。あの見知らぬ場所から永遠の暁が見える。「Rhapsody in beauty」の広壮な吉木さんのドラムに圧倒された流人、ケンゴさんのギターに飲み込まれた漂流者はいつまでもそれぞれのその震えさせる叩きとコードに生きていたがる。

で、ノーベンバーズの主に気に入っているところに向こう:ベース。無意識のうちに若いときからずっとベースが強く、深く感じるバンドを好んでいた。ノーベンバーズは確かにベースが強く感じるバンドだというのは事実だけど、言うまでもなく「Rhapsody in beauty」はベースが神に近いと言えるに間違いない。恐らく同名の曲には「Dumb」、「236745981」や「Xeno」といった曲ほどはっきり聞こえないかもしれないけど、全体としてこのアルバムの中の高松浩史さんの弾き方は気高い。それに加えて、「Romance」の高松さんのファルセットは魔法のよう。

この制作はただの絶妙な技量と心の梗概だけでなく、美への讃美歌でもある。以前美は知らなかったと言いたいわけではないけれども、このアルバムを通して新たに美というコンセプトを見直した。私は美と長い間なんとか難しい関係があった。鏡の中で映った姿をずっと「美しい」、「かわいい」に思っていなかったので、外界と他人の心にあの憧れた美しさを探していた。だが、それはどこにも見当たらなかった。どこで目を置いても、美しい物などなかったというか。

そのときになってようやく間違った場所ばかりで美しさを探していたと分かった。これを言うことによって「自分の中であの憧れた美を探し始めることにした」というありきたりで平凡な結論を出すつもりではないけれども、ある場合にはそんなことが本当になるというのは事実である一方、この場合には問題ではない。逆説的に、ノーベンバーズの「Rhapsody in beauty」は、芸術に目を向けたほうがいいと教えてくれた。芸術は、ただ、生命の自由。
少し「Rhapsody in beauty」という曲の歌詞の一節に目を通したいと思う。

ここへはもう二度と
帰らないと彼は決めた
地平の果てまで裸足で駆け出し
ただ美しい物が見たいだけ

この言葉がわかった時、二の句が継げなかったのを覚えている。生命はやはり美しい物から美しい物への断片化された旅しかない。大学一年生時代の私は心があの一節に引かれた。ついに故郷を離れて、ついに本当の自分を知って、本当に地平の果てまで裸足で駆け出しのように感じていた。ただ美しい物が見たかったから。ただ美しい物を制作したかったから。

「Hallelujah」は愛の美しさを見せてくれた一方、「Rhapsody in beauty」は美しさへの愛を悟らせてくれた。当時からこの歌詞を刺激に、久しぶりに短編小説を書き始めたりした。このアルバムで溢れる雰囲気をよく描いて、自分の制作は満足していた。かつ、音楽をもっと聴いたり、もっと勉強し始めたりすればするほど、あのノーベンバーズの後ろの世界、彼らの起源がはっきりと表れた。もう一つ現れたことは彼らがしたことの全てにおいてどれほど滅茶苦茶に優れていたかということであった。

「Rhapsody in beauty」の後、全作品の残りの全ても来た。ただし、私にとってこのアルバムはノーベンバーズ自身の作品の中にも無比である。「Rhapsody in beauty」がずっと探していた、この私の心を映した美的感覚の撮要。

彼に迫る一つの詩
「Rhapsody in beauty」
それが全ての理由か

最終的に、この言葉で終えたいと思う。やがて、「Rhapsody in beauty」は私に迫った一つの詩であった。それが全ての理由かどうか分からない、出発点か終点か、それも分からない。分かるのは、自分の居場所に少しずつ近づいているということ。
ノイズの海で波に揺られながら唄い踊ろう。生まれ変わろう。

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