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恋心喰らふ

 そうして千年が経った。
 墓のうちで眠り続けた彼女は目を覚まし、ゆるりと蕩けた肉を眺めた。
 瑞々しかった肌はもうどこにもなく、香るようだった肉もない。わずかに溶け落ちそこねた肉はひんやりとからびて、骨の合間にひっかかっている。豊かな黒髪は抜け落ち、けれどそれだけは嘘のように当時の艶を誇っていた。
 ほう、と彼女は吐息した。
 この髪ならばゆけるかもしれない、そう思ったのだ。
 千年の眠りは長く、彼女の人格からあらゆる色を削ぎ落したが、しかし千年の時を経てまだ残るものもあった。
 こいごころ。
 子宮も何も朽ち果てて、恋をするのも不思議なようだが、しかし白々と発光するかのような骨にそれは確かに現存している。
 彼女は過去の男たちを想った。
 どの思い出も無残に色あせ、記憶はどれもつぎはぎだが、その中でひとつだけいまだに光るものがあった。
 光る景色のなかで、ひとりの少年が笑っている。
 彼女が息を引き取る数日前に見た景色だから、少年と彼女との齢のへだたりは数えるまでもない。
 彼女が世を去ったのが三十路の手前。景色の中きらめきを帯びる少年はどう見ても十五に満たない。成人を終えたばかりの初々しい冠のかげで、ひそやかな微笑に身を染めている。
 あのとき、彼女の骨の髄までさくらいろに染まってしまったのだろう。
 その骨の色が千年の時を経てなお残る――彼女の意識を内側から明るませるその光景は、きっとそう言うことなのだ。少なくとも、彼女はそう思う。
 少年の姿を思い浮かべる。
 彼女の奥からさくらいろが滲み、骨があわあわと発光する。あわせて、豊かな黒髪がざわめいた。
 千年の時を経てなお生き続ける黒髪。それに、彼女は想いを託すことにした。

「清二」
 呼ばれた青年が、振り向く。
 折りしも先刻からの向かい風、桜の花びらが巻き込まれて微かなうずを巻く。花びらがかすめた青年の頬に、ひとすじの爪の痕があった。
「あんたまた喧嘩したん」
 姉の声を受けて、青年はきゅっと眉をしかめる。幼い顔貌がふいに険を帯び、いかにも凶悪そうな風貌になる。けれど幼いころから彼を知る姉はひるむことなく、青年の背をばしんと叩いた。思わずよろけそうになる剛力。青年はますます眉根を寄せて、姉をにらんだ。
「違ぇよ、見りゃ分かるだろ。喧嘩じゃねぇ」
 青年の声音に姉はまじまじと彼の頬を見据え、ふん、と鼻を鳴らした。
「清二ごときが、色気づいてからに」
 頬の傷を女との修羅場の後とでも見なしたか。
 青年は吹き出しそうになりながら、よっぽど事の顛末を教えてやろうかと思ったものだ。
 傷は数日前姉が拾ってきた猫に掻かれたのだ。彼が年甲斐もなく悪戯しようとしたのをさとくも察し、猫は窮地を脱したのだった。そしてその痕跡が青年の頬に残る、ただそれだけのことだった。
「……もしかしてこないだ連れてきたやつじゃなかろうね。ありゃ性悪じゃけ、やめとき」
 いっぱしの口をききながら、姉の方こそ悪い男によろめいているともっぱらの噂だ。ただしそれに触れると烈火のごとく怒りだすのが目に見えているので、青年はあえて口を閉ざす。こうなってみればどちらが大人気なのか分からない。
「なに、あんたその目……人のこと馬鹿にしてぇ」
 説教の途中で姉が笑い出すのはいつものことで、青年はこのひとが嫌いではない。
 口うるさいのには閉口するが、真剣に自分のことを考えてくれているこの世で唯一の人間だと彼はそう思っている。
「なぁこだよ」
 先日姉がつけたばかりの猫の名を口にすると、拍子抜けしたように姉は吐息した。
「なんじゃぁ。そうならそうと……それにしてもあんたは幾つになっても……好きな子のひとりやふたりおらんのね、もう」
 前言をひるがえすようなことを言いながら、それでもどこか姉は安心しているようだ。
 父が死に、母が男と蒸発し、幼い姉弟はふたりだけで生きてきた。姉と言いながらも半分、母親のようなつもりなのだ。そう思えば、青年の胸はかすかにきしむ。
「なぁ、あいついつまで家におるん」
「さあ、里親見つかるまでかなぁ」
 幼いころから家に来ては去ってゆく猫たちを眺めながら弟は過ごした。彼も姉も本当は猫を飼いたかったのだが、経済事情がそれを許さなかった。
「飼えばいいのに」
 幼いころそのままの調子で言う青年をねめつけ、姉は大きく首を振った。
「ダメ! 知っとろう、うちにはお金がないんよ」
 その文句でさえ幼いころから変わらない。
 母であり大黒柱である姉が家庭の全権を握ってきた。青年はただそのゆりかごのような腕に揺られていればいい――姉の認識は今日まで変わらないだろう。
 けれど、青年の意識は変わった。背が伸び、精通があり、義務教育を終え、職に就き……いまや彼と姉とをへだてるものは何もないではないか。
「金なら心配せんでいいのに」
 弟の言葉に、姉が笑った。
「あんたには百年早い言葉じゃわ」
 白昼。
 町の一隅、文房具店の前。桜降りしきる道の端。呵々大笑、姉のほがらかな声音がひびく。それをまるで日常に紛れ込んだ永遠のように錯覚し、青年はただひたすらに目を細めた。

 所詮、日常に永遠などない。
 日常はいつも唐突に息を引き取り、いくら揺さぶろうとももう二度と戻ってこない。幼いころ母に捨てられ、嫌というほど思い知らされたそれを青年が忘れていたはずはない。はずはなかったのに、つまりそれは油断だったのだろうか。
 店は踏み荒らされ、電灯は荒くれ者たちの影に揺れる。埃っぽいレジ横の土間に、じゃら銭はぶちまけられ、泥にまみれた靴跡が散る。悲鳴はもはや枯れ、絶え絶えのすすり泣きが連綿と続き、肌をぶつ音、肉うがつおと……皓々と照らされた屋内は、外から見ればまるで異界だ。日常を奪い去られた、そこは地獄。
 青年は買い物袋を握りしめ、屋外の闇に立ちすくんでいた。ぶるぶると全身が打ち震え、家の敷居をまたぐことができない。
 戸は開け放たれ、灯は漏れ、どころか姉の泣き声すら漏れ聞こえるのに、それでも彼は動けなかった。
 夜、青年が短い買い物に出るのは珍しいことではなかった。それが今日、何故このような異界を呼び込むに至ったのか彼には理解できない。
 夜遅く出かける彼を咎めながら、それでも姉はその後姿を見送った。その直後だったのか、賊が押し入ったのは。
 足が震えている。棒のように力が入らない。普段あんなにも力自慢と粗暴をうたう青年が夜の大地に縫い付けられている。
 臆病、卑怯、腰抜け……いくら叱咤しようと、足は動かない。
 しつけと称した暴力にさんざんさらされて育ち、抗うための力をつけたいと跳ねっかえり、結果がこれか。笑うにも馬鹿馬鹿しい。
 刻々と夜は更けてゆき、姉は犯され続け、兄妹を守った家は無防備に溶けてゆく。
 その雫さえ掬えない、青年は。
 ただ歯を食いしばり、見ているだけ。
 いや、見ることすらかなわない。
 立ち尽くすだけ。
 やがて屋内は静まり返り、皓々と照る家のなかからひとり男が出てきた。
 姉が最近懇意にしていた男である。青年が好まず、顔すら合わせるのを嫌う男。
 男は青年の姿を見ると、
「おう」
 と言った。
 ちょうど銭湯か何かで知り合いに会った時に軽く挨拶するかのようなそのそぶりに、青年のなかで滾り続けたものがはじけた。
「……おまえ!」
 右手の買い物袋を放り出し、全力で男にぶつかりにゆく。
 両手で抱えた男の胴は太く鋼のようだったが、青年は渾身の力で突進し、男はよろけ背後の柱にぶつかった。
「……ってぇ、何すんじゃ」
 青年のかがみこんだ頭を殴り、男はうなった。
 胴を離そうとしない青年を引きはがそうと、二三度なぐり、最後には腹に蹴りを入れた。
 たまらずくずおれる青年を見下し、男は反吐をはく。
「調子乗んな、腰抜け野郎」
 そのまま踵を返し、闇にまぎれた。

 青年はアスファルトに溶け落ちたようにしばし動かず、男の言葉をじっと反芻していた。
 皓々と漏れる屋内の光が彼の背を照らし、じりじりと焼いた。
 ……どれくらいの時が経ったろう。
 青年は立ち上がり、ぼうと霞んだ思考をもてあましたように首を振った。
 ゆっくりと戸を開け、家の中へ向かう。
 幾つもの靴跡。
 蹂躙されたレジ。
 ばらまかれた小銭。
 スリッパ。
 犯行は先刻の男だけによるものではないらしかった。
 部屋の奥。
 襖の内側。
 破れた障子紙の内側に屋内は透けて見え……
 白い、足。
 投げ出されたマネキンのような足は、しかし姉のものだ。
 まつわりつくシュミーズ。ざんばらに乱れた髪が悲鳴の残滓をからめて床を這う。
「……姉ちゃん」
 つぶやけば、
「入ってこんで」
 明確な拒絶。
 幼いころそのままのよるべなさで、青年は姉の言葉に従う。
 障子に手をかけもせず、背を向ける。

 台所へ。
 冷気を感じてふと見やると、冷蔵庫が開けっ放しになっている。
 庫内の食料も荒らされ、ところどころで食い散らかされている。飲みかけの牛乳のパックが横倒しになり、中身がぶちまけられている。だらしなく床にこぼれた液体をどうすればよいのか、彼には分からない……
 椅子に座った。
 どうしたことか壁紙が一部剥がされており、こんな無為なことも暴漢がしたのだろうか、そう思うと不思議だった。
 彼らにとって姉を犯すことも牛乳をぶちまけることも同じような意味合いなのだろうか。レジの金を盗むことも? ……思考はそれ以上、動かない。
「……あんた、何しとん」
 姉の声音が降ってきて、見やればすぐ隣に立っている。
「……姉ちゃん」
「……あんた、何しとん」
 姉の声に痛烈な皮肉が含まれていることを知って、青年は黙った。
「……さあ、もう寝よ。片づけるんは明日じゃ」
 姉は汚れた服を着ていて、青年はそれを見るのが辛かった。
 幼いころはふたりとも汚れた服ばかり着ていた。
 せっかく地獄を脱したと思ったのに、青年は思う。
 姉の白いワンピースには、なすりつけられたような靴跡があった。

 夜、と言っても明け方近いその闇のなか、青年はまんじりともせず、天井の消えた電灯を見つめていた。

 復讐の二文字が青年をとらえたのは当然のことで、けれど青年は自分にそれが実行できるのかどうかあやぶんだ。
 腰抜け野郎。
 男の言葉が屈辱とともによみがえる。青年は自分の瞋恚を信じた。

 決行の前夜。
 青年はそれを見た。それは蛇のようにおどろおどろしく、蟲のようにいやしい。ぬかるむ大地の一角、土から這い出てきたそれを見つけ、青年は嫌悪に身をふるわせた。
 触れるとそれは湿っている。
 女の呼気のような熱を帯びており、また秘所のようにぬるついている。
 青年はまだ女を知らなかったがそれが女の情念からなることを一目で見抜いた。
 それは、黒く繁る髪だった。

「姉ちゃん」
 レジに向かう姉の背に、青年は呼びかける。
「ちょっと出てくる。夕方までには帰るけぇ」
 青年が嘘をつくとかならず見破る姉が、その日は何も言わない。
 ただ背中で青年を見送った。

 夕暮れ。
 目を射る閃光のような日差しに、あえて青年はまぶたを瞑らない。焼かれる網膜の焦燥の音を聞きながら、ただ歩んだ。
 事務所はもぬけの殻だった。
 青年の復讐を恐れたのだろうか、そんなことはあるまい。警察の追随を恐れたのだろう。あるいは別件でもめ事でも生じたか。青年の復讐を待つまでもなく、男は姿を消していた。
 姉の手帳を盗み読み、調べた情報が無駄となった。榎木というあの男にはもう永遠に会えないかもしれない。生計も姉も捨て、男は消えた。
 青年は渾身の力のやりばをなくして、立ち尽くした。
 事務所というにはあまりに殺風景なビルの一角の、狭苦しい一部屋。
 そんな場所に垂れこめて、あの男がまともな仕事をしていたとは思えない。どうせデスクと椅子が一脚に電話が一台だけの、見るからに怪しい生業で稼いでいたのだろう……思えど、今となってはその思考に意味もない。
 立ち尽くしたまま、青年は上着のポケットに入れたひとふりのナイフを取り出した。
 ぎらつく刃が気疎く、見るだに背をそそけだたせるナイフを、夕暮れの赤光にかざし……ふと、刃にひとすじの髪が絡むのに気付いた。
 黒髪。
 先日、雨の日のぬかるみで発見した豊かな髪束……目を凝らせば毛根の精さえじっとりと濡れて新しい……俺はあれを拾ったのか。驚きとともに青年は思う。
 何故かしら惹かれ、立ち止まり、見つめ……そこまでは覚えているものの、それを拾ったかどうか記憶がない。
 艶やかな黒髪は夕暮れの光を受け、歓喜に濡れているかのようだ。
 女の秘所のよう、とあの日青年は思ったのだが、やはり今もそう思う。
 ……いとしいひと。
 黒髪がそっとささやいた。
 青年には聞こえず、彼はナイフを折りたたみ上着のポケットにしまった。
 ポケットの中には黒髪が渦巻き彼を迎えたが、青年は気づかない。
 狭苦しい部屋を抜け、ビルの階段を降りる。
 黄昏は煮詰まり、今にも蒸発しようとしていた。

「……随分遅かったけど」
 飯をよそいながら、姉が言った。
 ちゃぶ台には夕食の膳が並べられ、姉はどうやら青年の帰りを待っていたらしい。鍋で沸き立つ味噌汁の火をとめて、青年は何でもないような声を出した。
「仁方まで行っとった」
「……ふうん、あんた賭け事じゃないじゃろうね」
 気の抜けた声を出しながら、姉が言う。
 山と盛られた飯を受け取りながら、青年は姉の様子をうかがっている。
 声の調子はいつもの通りだ。けれど青年の目を見ない。顔を真正面から見据えるようでいて、いつも少しだけまなざしを外す。あの夜から、姉は彼の目を見ない。
「……姉ちゃん」
「なに」
 味噌汁をすする姉は、視界の端に彼をとどめるだけだ。
青年は何とも言えぬもどかしさに身を染め、けれどその理由が分からない。まさか子供でもあるまいに、姉のまなざしが得られぬのが寂しいなど。
「何でもない」
 飯を掻きこみ、味噌汁を流し込み、おおいに咀嚼し、あっというまに夕餉は終わる。
 流しに食器を運びながら、青年は今更に榎木というあの男を憎んだ。壊されたものはレジだけではない。障子だけでは。したたり落ちたのは牛乳だけではなかった。
 食器を洗う姉の後姿が無言で何かを語っている。
 その言葉を知らぬので青年はすごすごと部屋に引き下がるしかない。
 ほころびが今や家を覆っている。繕いかたを知るものはいない。

 夜、眠るときになると、決まって髪が現れた。
 電灯の消された暗闇の中を、さわさわと床を這う音が聞こえたかと思うと、もう青年の腕にからんでいる。
 闇のなかでさえ際立つ漆黒の髪は彼の腕にからみ、まきつき、あたかも睦言をささやくかのよう皮膚を撫ぜた。
 気味が悪い、と思わないでもない。
 けれど何の害もないのだ。こうして猫の代わりに髪を飼っている、そう思いなすのも悪くはなかった。
 あの夜を境に、なぁこと名付けられた猫は姿を消し、薄情にも二度と戻ってこなかった。

 姉が新しい男を作ったのと同時に、青年は家を出た。
 正確には追い出されたのだ。
 男が家へやってくる日、姉はレジに立っていた。
 田舎のさびれた文房具店、さして客は来ないというのに、万引きを恐れて姉は始終レジに立っている。
 姉が稼いだ金をすべて注いで買った小さな店。
 ひとり人間が増えるのだから、ひとり減らねばならないのは道理である。
「……あんた、ちゃんと三食食べんさいよ」
 ほころびた穴は結局埋まらずじまいだったが、姉は穴をおおう端切れを見つけたらしい。
 ひとり放り出される弟を心配しないでもないらしく、前日の夜はこまごまと青年の世話を焼いた。最後まで、彼の目は見なかった。
「姉ちゃんも元気でな」
 たかが隣町へ引っ越すだけなのだから、別れの儀式など馬鹿げている。
 二人ともそう思っていたので、別れの景色はさいごまであっさりとしていた。
 踏み出す青年の足元に、黒髪。
 ぬかるみを抜け、白昼の陽光にさらされてなお髪は湿り気を帯びている。
 ……いとしいひと。
 髪の言葉を聞く者はいない。

※※※

 ある日、女が青年の部屋を訪れた。
 夜の繁華街で出会った、いわゆる水商売の女である。まだ業界に足を踏み入れたばかりで、若く、無邪気なところが残っていた。
「へぇ、いい部屋じゃん」
 色あせた畳を踏みながら、女はそんなことを言う。
 お世辞にもいい部屋であるわけがなく、狭くて古い、日当たりのよいのだけが長所の部屋だったが、それでも女に褒められると悪くないような気がしてくるから不思議だ。青年は女に惹かれていた。
「……ちゃんと自炊してるんだぁ」
 窓辺におかれた炊飯器を見て、女は歓声をあげる。ぱちぱちと小さく拍手しながら、窓辺に上半身をもたげ、
「ね、開けていい?」
 埃っぽい窓ガラスを指さした。
 青年が窓を開けると、深く息を吸いこんで、
「空気、美味しいねぇ」
「あっちとそう変わらんじゃろ」
 ものの数町しか離れていない女の店のことを青年は言うのだが、女は頑として譲らない。
「美味しいよ、あっちとは全然違う」
 外の空気に触れながら、気持ちよさそうに女は言った。
 今日は月がきれい、と女は時折店でもそんなことを言った。
 酔客の見送りをしながら、ふっと現実を忘れ、夢に飛翔するかのような女のまなざしが好きで、その店にゆけば必ず女の姿を目で追うようになった。
 同席の同僚からはさんざん冷やかされたものだが、青年はこの女に手を伸ばすことができて本当によかったとそう思う。
 てらいのない女の、素顔のような性根が好きだったーー
 ふと頬に女の指が触れ、かと思えばいつの間にか青年の指も女の頬に触れている。
 どちらともなく顔を近づけ、キスをし……あとは自然になだれこむのが男女の常。
 窓が開いているのを女は最後まで恥ずかしがり、カーテンの裾をつかんで、ワンピースの衿を噛みながら声を耐えた。
 その様子があまりに愛しく、憐れでもあり、青年は気がついたら果てていた。

「……風、気持ちいいね」
 うっとりとまどろむように目を伏せながら、女が言った。
 その頬を陽光があかるく照らしており、青年はしみじみと女を抱きしめた。
 胸苦しく懐かしいひなたの匂いが鼻孔を染め、なぜだか少しだけ青年は泣いた。
 目尻に浮く涙を女にさとられぬようゆたかな胸乳に顔をうめ、まぶたを瞑った。
 夢でさまよったのは幼い景色。
 姉がいる。
 色褪せた畳、ひなたの匂いーー今では去ってしまった満ち足りたときを、懐かしく彼は呼吸する。

「……清二」
 差しだされたてのひらには、小さなパン。
 見上げれば姉がーーまだ小学校も卒業していない姉がいる。
 薄汚れたTシャツ。
 洗濯機はとうとう先日寿命をむかえ、故に洗濯物はたまる一方だ。
 時々姉が手洗いをするのだがそれも毎日となれば追いつかない。姉弟はいつも汚れた服を着ていた。
「姉ちゃん」
 こたえる青年の声も幼く、彼は自分もあの頃の姿に戻っていることを知る。
 姉のてのひらからパンを受け取り、頬ばろうとして、パンがひとつきりであることを今更のように知って絶句した。
 ーー姉のパンはないのだろうか?
 見上げると、逆光。
 逆光にふちどられた姉が、この世でいちばん優しい微笑で笑っている。
 みとれていると、慈愛深いてのひらが彼の頭を撫でた。
「姉ちゃんはもう食べてきたけぇ」
 涙ぐましい嘘に騙されたふりをして、幼い彼はパンにかぶりつく。
 どだい空腹は限界を超えていた。
 姉弟愛をかさにきた我欲のあさましさ。
 パンをかじりながら、彼は少しだけ泣いた。
 ひなたの、色褪せた畳の匂いがしていた。

「……どうしたの、寝言?」
 ふわりと額をおおったてのひらに青年は夢を読まれた気がして、胸の奥がひやりとする。
 幼い頃のなんということはない記憶……読まれたところでどうということもないはずなのに、どことなく後ろめたく、すぐには女の顔を見れなかった。
「夢、見とった……」
「うん、寝言言ってた。聞き取れなかった……」
 ふわりとあくびを交え、女が言った。
 ふたりとも眠っていたらしく、眠りのあいだ中、開け放たれていた窓は夜の忍び込むのにまかせていた。
 かすかに冷える夜気に、羽虫……夜の連れてきたものはけれどそれだけではないらしい。
 かたりと、小さな音が片隅で鳴った。
 けれど、その日はそれだけ。
 電灯をつけ、女が台所に立ち、ふたりで夕餉をかこみ、布団を改めて敷き、今日は非番だという女とともに青年はふたたび眠りに落ちた。

 黒髪をしばらく見ない。
 目に映らぬものは忘れる質である。
 青年は黒髪を忘れた。
 そのかわり、手中の珠のよう女を愛した。

 呼び出し音は永遠につづく。
 かけてもかけても、姉は出ない。
 陽にいぶされた畳のうえあぐらをかき、青年はいつまでも応答を待っている。
 あとワンコール、あとワンコール……そう思いながら、いつまでたっても受話器を置けない。今にも姉が受話器を取りそうな気がするのだ……目に映らぬものは忘れる、そんなのは嘘だ。

 思い出。
 どうしようもなく貧しく、愛しく、胸の奥底に刻まれてしまった思い出。それはまるで後悔のように彼の身を内側からやましく染める。
 ……姉は電話に出ない。

※※※

 女が寝床のなかで極まって半身をのけぞらせた。
 汗の発する蒸気で部屋はうだるようで、青年はやわらかな女の肉を組み敷きながら、あらぬ光景を見ていた。
 黒髪。
 それはざんばらに乱れながらもかつての艶やかさを誇り、豊かに畳に流れている。
 家を出てしばらくは寂しさもあり、あたかも愛玩動物のように可愛がっていたあれを何故俺は忘れていたのか。
 青年が悔いたのは、かすかにそれが蠢いていたからである。
 肉欲の瘴気にあてられて、黒髪は湿潤な自我を取り戻したかのようだ。匂いたつ色欲に濡れながら、ぞろりと畳を這った。
「清二、清二」
 首にまきついてくる女の腕が、青年から思考を奪ってゆく。
 思考亡きあとに残るのは剥き出しの感情。
 女を限りなくいとおしいと思う気持ちと、精を思うさましぶかせたいというその衝動と、声にならない恐怖の念と、分かちがたく混じり合うので、混乱はめまいとなって青年を襲った。
「……あ、あ、あっやだ何これぇ」
 陶酔の渦中の女をまず黒髪はとらえ、やわらかな肉にからみ、巻きつき、ふるえる肉を絞め、絞め上げ、引きしぼり、随分とゆっくり時間をかけてさいなんだ。
 そのあいだ中、女は面白いように切ない声をあげ続け、ああこれは愛撫なのだと青年は遠巻きに理解した。
 繁茂した黒髪に埋もれ、いまや女の姿は見えなかったが、そのもれ続ける声音が悦楽の極みに近づいていることはうかがえる。
 青年の雄を呑む媚肉もあさましく蠕動をくり返し、青年は間接的に黒髪に犯されていることを知るのだった。
 やがて女の声は途切れ、檻のような黒髪の狭間から桜色に上気した女の肉が見えた。
 ところどころに黒髪をからませた肉はきりきりと絞め上げられ、まるでよくできたハムのようだった。
 ……いとしいひと。
 髪の狭間からこぼれんばかり、はみ出した肉が言った。
 それはもう女でもなく、黒髪でもなかった。同時にまた女でもあり、黒髪でもあった。
 青年はその女とも黒髪とも知れぬものを抱き寄せ、突き立てた肉棒を擦るようにした。熱く濡れた粘膜は極まりを経てさらに蕩け、襞という襞で彼を迎えた。
 ……いとしいひと。
 女でも黒髪でもないものが言う。
 ざわざわと肉とも知れぬ髪とも知れぬものが青年の上になだれ、なやましい蠢動をはじめた。
 青年は呆然と腰を動かしながら、はるか遠い景色の底に見知らぬ女を幻視し、またその裏側に透けて見える懐かしい家を見ていた。
 あれは幼い頃住んでいた家だろうか、それとも姉の買った小さな店だろうか……
 明るい電灯がともり、灯下はおしなべて安らかで、夜はいつも凪いでいた。
 ひなたの匂い。姉の微笑。気の強い姉。姉はあの男を許したのだろうか、榎木というあの男……
 眼裏で景色は反転し、美しい夜は惨憺たる夜へと変貌する。
 牛乳はこぼれしたたり、障子は破れ、永遠かに思われた日常はあっけなく息を引き取る。
 姉は何故、電話に出ないのだろう……
 ぽきりと、音がした。
 鼓膜を介さず骨をふるわせる音に注意を向けると、唐突に痛みがやってきた。
 眼裏の景色は消え、青年は現実に引き戻される。
 ぺき、ぱき、ぽぼきっ……かわいた小枝を折ってゆくような小気味のよい音が今度は空気を介して聞こえ、また骨からも伝わった。
 黒髪の愛撫は烈しかった。
 千年の時を凝縮した抱擁が生けるものの毒となるのを髪は知らない。
 余力の限り込められた情念は青年の肉をあますところなく絡めとり、むしゃぶり、食んだ。肉を食み、汁をすすり、黒髪の愛撫のさまはあたかもやわらかな桃をむさぼるかのようだ。
 愛は渇きの大地を癒す。降り注ぐ。まるで慈雨ーー慈雨は目の覚めるような紅色だった。
 青年はむさぼられながら懐かしい夢の続きを見た。
 記憶はきれぎれで、景色は雑音に満ちており、はるか向こう側に遠ざかってゆくばかりだったが、青年はそれを愛した。
 やがて最後の呼吸がはき出された。
 青年の心音は永遠にとまり、永遠に続く景色はないと彼が信じたのとうらはら、永遠にーー本当に永遠に固着された。
 彼の意識は失われたが、桜色に蒸気した肉は残った。
 一度黒髪の烈しい愛撫に咀嚼され尽くしたかに思えた青年の肉は、黒髪の狭間からいつの間にか再生し、締め上げられたハムのごとく陶然と盛りあがった。
 ……ぽたぽたと、紅がしたたる。
 女のものなのか青年のものなのか、はたまた黒髪の流した血涙か。ぽたぽた、ぽたぽた、血の紅はひっきりなしにしたたって、敷かれた布団の白を染めた。
 満ち足りたそれはかすかな疲弊とともに血の海のさなかに横たわり、ふうっとひとつ吐息を落とした。

 ……いとしいひと。

※※※

 電話のベルが鳴る。鳴っている。
 誰も受話器を取るものはない。
 誰もいない。
 小さな店の土間、ちゃちなレジ、丸椅子、スリッパ……何故、誰も出ないのだろう。青年は思う。
 浮遊する埃よりまだこまかい粒子となり、黄昏の一片となり、彼は昔のすみかをさまよっている。微動だにせぬ空気。人の気配はたえてないーー
 随分前に人の姿を失って、店のなかはがらんどうだ。
 以前と変わらぬ景色の隅々にはもはや黴の根が張りはじめて久しい。
 放置されたままの家具や家電、電気の通らぬ冷蔵庫ーー扉はあの日のように開いたままだーーが捨て置かれている。
 心臓を抜き取られた店にもはや生気はないのに、粒子となった青年は肉を持たぬのでそれが分からない。
 鳴り続ける電話の受話器を今しも姉が取り上げて、喋りだしそうな気がする。
 ーー清二? あんたもう本当に全然連絡よこさんで。心配するじゃろ。
 ーーごめん、ちょっと忙しくて。
 ーーそう? こっちも忙しゅうてねぇ。あんたたまには帰ってき。
 そんな会話が繰り広げられそうなものなのに、一向に姉の姿は見えない。
 足音さえ、ない。
 いぶかしんだ黄昏の粒子、あるいは青年は、ゆっくりとレジ横の空間をかきまぜて、思い出したように居住空間への暖簾をくぐった。

 部屋は打ち捨てられていた。
 生活のこまごまとしたものがあらゆる場所にちりばめられ、姉の質量だけがどうしようもなく失われている。居間にも台所にも姉の姿がないので、青年は困りはてた。
 唯一探し残したのは姉の居室ーー踏み入れれば確実に頬に平手をくらうので、もう何年も入ったことがない。わずかな逡巡をへ、彼はそこへ向かった。

 扉を開ければ、虚無。
 茫漠たる孤独が声もなく広がっており、青年は幼い頃の絶望の匂いをふたたび嗅いだ。
 とどこおる蜜のような陽を縫って、彼は部屋のなかへーー虚無はしかし、温かかった。

 青年は昔の夢を見る。
 満たされていた黄昏。
 腹はいつもきゅうきゅうと鳴り、まとうのは薄汚れた衣服。
 それでは幸せとは貧しさなのか。欠乏しか俺を満たしてはくれないのか。
 そう思えば、蜜に濡れた空虚な部屋こそが彼の歓びの絶頂であるかのようだった。

※※※

「……だから夜逃げだと思うんですよ。荷物も全部そのままで」
 くどくどと言いつのる大家の声音をなかば無視、女はアパートの階段をあがる。
 立ち止まった203号室、弟の借りた部屋ーーその扉をのぞむと、
「開けてください」
 問答無用でそう言った。
 そもそもの渋面をなおしかめながら、大家は腰にぶらさげた鍵で扉を開けた。

 踏みこんだ部屋は、虚無。
 その懐かしい香にくらくらと彼女はめまいし、葬り去ったと思いこんでいたはるか昔の過去を見た。
 黄昏は蜜と降りそそぎ、恵まれない姉弟をその臓腑の底で燃やしていた。
 姉弟はひとつのパンを手に、仲よく身をよせあい、この世のなかで最もうつくしい絆で結ばれていた。
 ふたり身を寄せさえすれば、この世のありとあらゆる災厄から逃れられると本気でそう信じていた。幸福とは愚劣のことを言うのかーー
 敷きっぱなしの布団が一枚、部屋の中央に寝そべっている。
 白い……いや、これは赤……? それとも黄昏のめくらましだろうか。
 布団を染めるおびただしい紅色に、彼女は不安よりも安堵を感じた。
 てのひらから零れたと思っていたものをふと路傍に見出したときのような、えもいわれぬ胸のときめき。思わず、彼女はささやいた。

 ……清二?

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