ボードゲーマーに贈る「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」の歴史的背景〈北アメリカ編〉


ボードゲーム「ワイナリーの四季」とは

 アークライト/米Stonemaier Gamesより発売されているボードゲーム「ワイナリーの四季(原題:Viticulture)」は、両親から譲られた廃業寸前のワイナリー(ワイン醸造所)を立て直すワーカープレイスメントです。

 「ワイナリーの四季」には基本セットに加えて、ゲームに様々な追加要素を付け足すことのできる拡張セットがいくつか発売されていますが、中でも全プレイヤーが協力し合ってワインの販路を全世界に広げる「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」では、アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニア、南米、アフリカの6大陸それぞれに「イベントデッキ」が用意されており、いずれか1つのデッキを使ってワイン生産史をなぞりながらゲームを勧めます。時間が止まったりはしません。

 今回は難易度「通常」の北アメリカデッキを題材に、北アメリカのワイン史を見ていきたいと思います。

ヨーロッパ人の北米入植

 アジア編でも触れましたが、ざっくり解説しておくとブドウの原産地は全陸地が繋がっていた頃の西アジアで、氷河期と大陸移動でブドウの繁殖地は分断し、西アジア、東アジア、北米大陸南部に分かれました。
 北米大陸の原住民(いわゆるアメリカン・インディアン)はトウモロコシやサトウキビなどと共にアメリカブドウを栽培していましたが、ブドウは主に生食され、ワインに類するアルコール飲料は作られていませんでした。またコロンブス以前に北米大陸を訪れていた北欧人ヴァイキングたちは、北米大陸を「ヴィンランド(ブドウの地、あるいは草原の地)」と呼びましたが原住民に追い出されて定住できず、ワインは大航海時代にヨーロッパ人が北米大陸を訪れてから作られ始めたようです。

 スペイン王室の支援を受けたイタリア人探検家クリストファー・コロンブスの船団が大西洋を横断し、陸地を発見したのは1492年10月のこと。原住民が「グアナハニ島」と呼ぶ島を「サン・サルバドル島」と名付けます。北米大陸の南東側に位置するカリブ海の島、西インド諸島に連なる島です(コロンブスが「サン・サルバドル島」と呼んだ島については諸説あり、実は現在のサマナ島だったと言う説もあるそうです。なお現在のサン・サルバドル島は1929年に改名される以前はワトリング島と呼ばれていました)。
 その後、西インド諸島のスペイン人植民地は原住民やハリケーンなどで破壊と再建を繰り返し、1502年にイスパニョーラ島南東部のオサマ川河口西岸にサント・ドミンゴが建設されました。現在のドミニカ共和国の首都です。築かれたスペイン人の街は、その後のコロンブスのアメリカ大陸探検の拠点になりました。
 1493年にコロンブスに同道し北米へやってきたスペイン人探検家フアン・ポンセ・デ・レオンは、1509年にプエルトリコ提督に就任するも近海の探検を続け、1513年4月に上陸した土地に「ラ・パスカ・フロリダ」と名付けました。現在のフロリダ半島です。
 しかしフロリダ半島の原住民たちはスペイン人たちの入植を受け入れず、当時スペインと植民地獲得競争をしていたフランスも加わって、植民地の建設と破壊を繰り返した末、1565年にスペイン人たちがサン・アグスタン(セント・オーガスティン)の街を建設します。

 イギリス帝国も、まだスペイン人が入植していなかった現在のヴァージニア州に1607年から入植し、北米大陸の植民地化を始めました。

 こうしてヨーロッパ人はアメリカ大陸に定住するようになり、当初はアメリカ大陸に生息していた野生のアメリカブドウからワインを作りました。このワインの「狐臭」と呼ばれる独特の香りは、当時のヨーロッパ人たちの好みに合わず、彼らはヨーロッパブドウの苗を持ち込み栽培を試みますが、このブドウ栽培は非常に困難でした。
 その理由は、ヨーロッパブドウには不向きな北米大陸東海岸の高温湿潤な気候、ヨーロッパ編で紹介したアメリカブドウと共生する害虫フィロキセラ、北米大陸東岸発祥の真菌病「ブドウ黒腐病」です。
 ……なのですが、最初にアメリカブドウでワイン醸造を試みた時期や場所や人物、ブドウ黒腐病について詳しく調べようと思って検索しても、全然情報がヒットしませんでした。素人がボドゲまめちしきとして付け焼き刃で首突っ込んだらあかんのですかね。あと、ブドウ黒腐病で検索すると「ブドウ黒痘病」がヒットするんですが、違いは何なんでしょう? 農業生物資源ジーンバンクの説明によると同じ病気の異名っぽいんですが、対策ばかりで「病原菌そのものの説明」が少なすぎて完全に同一なのか派生なのか似て非なる病気なのか判断しづらいです。

 教えて偉い人!!!

ワイン用ブドウの広がり

 ヨーロッパブドウ系の最初のブドウは1629年、当時ヌエバ・エスパーニャ(ニュー・スペイン)と呼ばれていた北米大陸南部のサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ州(現在のアメリカ合衆国ニュー・メキシコ州とメキシコ合衆国に跨る地域)で、当時は「セネク」、現在では「ミドル・リオ・グランデ・バレー」と呼ばれているニュー・メキシコ州サン・アントニオ近郊の地域に植えられたそうです。
 この地はメキシコ湾に注ぐリオ・グランデ川の上流域となります。スペイン人も、恐らく川を遡ってこの地へ来たのでしょう。

 1740年、当時イギリス人ペン家の領有地だったペンシルバニア州フィラデルフィアのスプリングゲッツベリー近郊で、新種のブドウが発見されます。発見場所は、ペン家がペンシルベニア州を入手して間もない1683年にヨーロッパブドウを植えたブドウ園であり、発見されたブドウはアメリカブドウの交雑種でした(自然交配によるため、交雑したブドウは不明ですが、ヨーロッパブドウと推測されています)。このブドウは発見者であるペン家の庭師ジェームズ・アレクサンダーに因み「アレクサンダー種」と名付けられました。
 アレクサンダー種はフィロキセラへの耐性を持ちつつ、ヨーロッパブドウのワイン適性を兼ね備えたブドウで、フィラデルフィアの植物学者ウィリアム・バートラムがこのブドウを積極的に広めました。

 今日、北米大陸の代表的なワイン産地である西海岸のカリフォルニア州では、1769年にフランシスコ会のスペイン人宣教師フニペロ・セラがサンディエゴ付近に最初のワイナリーを作ったそうです。当時のカリフォルニア州はフィロキセラに汚染されていませんでしたが、土着のアメリカブドウで作ったワインの品質は悪く、そこで、かつてスペイン人征服者エルナン・コルテスが1520年に持ち込んだヨーロッパブドウの「クリオジャ・グランデ」「ミッション種」などと呼ばれる品種を使うようになります。
 1818年、マサチューセッツ州出身のジョセフ・チャップマンがカリフォルニア州モントレーへと転居、伝道所でブドウ栽培とワイン醸造の知識を学びました。彼は1826年、ロサンゼルスに4000本のブドウを植えます。これがカリフォルニア州で最初の商業ワイナリーだそうです。
 1831年には、フランス人ジャン=ルイ・ヴィーニュがロサンゼルスに入植します。ボルドー生まれでワイン樽職人の家に育った彼は、カリフォルニアのミッション種のワインにも、ワインを熟成させずに飲む現地の習慣にも不満だったようで、フランスから良質なヨーロッパブドウの苗を輸入し、1837年までに最初のワインを醸造しました。ヴィーニュのワインは商業的に大成功をおさめ、1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュもあって、1849年までに彼はカリフォルニアで一番の大地主となりました。ヴィーニュは敷地内に生えていたハンノキに因んでブドウ畑をエル・アリソと名付け、そこからドン・ルイス・デル・アリソと呼ばれるようになったとか。
 またゴールドラッシュでカリフォルニアに押し掛けた「フォーティーナイナーズ」の中には、思うように金が採掘できず、持ち前の知識を活かしてワイン生産を始めた者もいたそうです。
 チャールズ・クリュッグがナパ・ヴァレーのセント・ヘレナでワイナリーを創業したのは、それより後、1861年の話です。

 1798年、アメリカ軍人にして測量技師ジョン・アドラムは、メリーランド州アーブル・ド・グレースに移り住んだことを切っ掛けにワイン作りに取り組みます。
 当初はヨーロッパブドウの栽培を試みましたが、前述の通りフィロキセラや黒腐病などによって失敗したため、アメリカブドウのワイン作りに取り組んだ結果、1809年にアレキサンダー種のワインで高評価を得ます。今日でも大のワイン愛好家として知られる第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンも、彼のワインを非常に高く評価したとか。しかし一般には「アメリカブドウのワイン」に偏見が持たれていたため、彼はヨーロッパブドウの栽培にも挑戦し続けました。ジェファーソンはそんなアドラムに、「ヨーロッパブドウの栽培には100年単位かかるから、まずはアメリカブドウのワインに注力するように」とアドバイスしたそうです。
 1819年、アドラムはメリーランド州在住の未亡人から、彼女の亡夫が「カトーバ」と呼んでいたアメリカブドウの苗を手に入れます。未亡人はこのブドウの入手元を知らず、ドイツ人司祭から貴腐ワインで著名なハンガリーのトカイ地区のブドウと聞いたそうです。
 アドラムは「未亡人のブドウ」をワシントンD.C.のジョージタウンのブドウ畑で育て、1821年か1822年に最初のワインを醸造しました。1822年、彼は「トカイ」のワインをジェファーソンに贈りますが、その評価は芳しくなく、1825年に「未亡人のブドウ」を「トカイではない」と結論付け、未亡人や彼女の亡夫と同じく「カトーバ」と呼ぶことにしました。カトーバ種は後に、ノースカロライナ州アシュヴィル近郊のカタウバ(カトーバ)川沿いに自生する雑種と判明したそうですが……アシュヴィル近郊に「カタウバ川」と言う川を見つけることができませんでした。何処よ!? そして、このブドウがどうやってメリーランド州に伝わったのか、アドラムがこのカタウバ川の野生ブドウを知っていたかは定かでありません。

 1823年、不動産投資家ニコラス・ロングワース1世が、オハイオ州南西の都市シンシナティの周辺、オハイオ川沿いの地域にアメリカブドウを植えたのが、オハイオ州のワインの始まりとされています。
 ロングワース1世は不動産投機により資産を増やす傍ら、ジョン・アドラムから贈られた「カトーバ種」を1825年にオハイオで最初に植えました。彼はアメリカブドウの「狐臭」を低減するため、皮を除いたロゼワインを作っていましたが、1842年の春、カトーバ種のロゼワインは偶然の二次発酵によりスパークリング・ワインとなりました。
 彼のロゼワインとスパークリング・ワインは世界中で非常に高く評価され、アメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローは1854年、「Catawba Wine」と言う詩をロングワース1世に捧げています。また1858年には、イギリスの大衆向け週刊新聞イラストレイテド・ロンドン・ニュースがカトーバ種のワインを「ラインの飛節よりも飛節の種子と風味が優れたワイン」「フランスのシャンパーニュを超える」と評しました。
 こうした評判からオハイオ州ではカトーバ種が次々植えられるようになり、1860年までにオハイオ州のワインはアメリカ国内におけるワインの供給量の3分の1を占める程になり、カトーバ種はオハイオ州の主要なブドウ品種となりました。最盛期にはロングワースのブドウ畑だけでも約810haに及ぶ程でした。
 しかしオハイオ州のカトーバ種は、初期からブドウ黒腐病にも悩まされていました。当初は作付面積が小さかったため、あまり問題視されていませんでしたが、作付面積が広がるにつれブドウ黒腐病も蔓延していき、1861年の南北戦争の勃発により労働力が激減したことも重なって、オハイオ州のワイン産業は衰退します。南北戦争により供給が減ったためワイン価格は高騰しましたが、当時オハイオ州のワイン交易の要所であった南西端のシンシナティを1867年に訪れた人物が「オハイオの農民の間では、現在、ワイン栽培はやや人気がない」と書き残しているそうです。
 ワイン生産者の中には病原菌を避けるため、北部のエリー湖南岸やそこに浮かぶ島々に移転した生産者もいました。それ以前はシンシナティ周辺の方がワイン産業は盛んでしたが、エリー湖岸でも1830年代からワイン生産が行われており、当時エリー湖南岸クリーブランドのワイン生産者だったH.O.コイトは、エリー湖岸の地域がいずれワイン生産で知られるようになると予言したそうです。そしてシンシナティ周辺でのワイン産業が衰退すると、コイトの予言通りワイン産業の中心地はエリー湖岸へ移り、エリー湖に浮かぶミドル・ベース島に設立されたゴールデン・イーグル・ワイナリーは、1872年にはアメリカ最大のワイナリーだったとか。エリー湖沿岸のブドウ畑は1867年頃は約2800haだったそうですが、1889年頃のオハイオ州のブドウ畑約1万3000haのほとんどがエリー湖沿岸だったと言うほど拡大したそうです。

1920年、禁酒法

 1801年3月から1809年3月に第3代アメリカ大統領を務めたトーマス・ジェファーソンは、前述の通り大のワインコレクターで、自らワイナリーを経営したり、アメリカ合衆国でワイン産業を推奨したり、ワイナリーから贈られたワインを全て試飲したりしていました。
 しかし植民地時代から禁酒の動きはたびたび見られ、1840年代に入ると、道徳や社会観念の乱れを正すべく、特に敬虔で厳格なキリスト教徒によって禁酒運動が活発になったそうです。キリスト教徒の中でもドイツのルーテル教会やローマのカトリック教会などは禁酒に反対の立場を取り、キリスト教徒が一律に禁酒を支持していた訳ではありませんでしたが、1881年のカンザス州を皮切りに、州法で禁酒を定める州も出てくるようになります。

 1914年6月のサラエボ事件を機に第一次大戦が勃発、アメリカはすぐには参戦しませんでしたが、1915年5月にニューヨークから出港したイギリスの旅客船をドイツ軍のUボートが撃沈すると、アメリカ人の犠牲が出たことから反独感情の世論が高まっていきます。
 この影響でドイツ系が主力だった反禁酒勢力は発言力を失い、更にアメリカの大手ビール会社の大半がドイツ系だったことで、ビール=ドイツ=悪のイメージが喧伝されるようになり、禁酒運動が一気に加速します。しかし肝心の「アルコール飲料業界」は、規制逃れに躍起になるばかりで連携を取れず、禁酒運動を止めることができませんでした。最終的には1917年2月に合衆国全域を対象にした禁酒法が可決し、1920年1月から施行されました。
 この禁酒法は、アルコール飲料の「製造」と「販売」と「輸送」を禁じていましたが、実は「飲用」は禁止されていませんでした。そのため施行前にはワインや酒類の駆け込み需要があったそうです。
 またキリスト教の宗教儀式で使うワインと医療用ワイン、「酔わない程度の」ワインとリンゴ酒を国産品で自家醸造することは許容されたため、一部のワイナリーは細々ながらワイン醸造を続けることができました。しかし大半のワイナリーは、生食用のブドウに植え替えたり、生産者が亡くなり廃業したり、株の仲買人など異業種に転職しブドウを手入れせず放置したりしました。
 また消費者は、酒を飲むため国境を越え隣国のカナダやメキシコやキューバに出向いたため、それらの国々の酒場やワイナリーは大いに賑わったそうで。
 禁酒法以前にはアメリカ国内で約2500件あったワイナリーは、1933年12月に禁酒法が正式に廃止されるまでの僅か13年で、100件以下にまで減ったそうです。
 しかし禁酒法施行中も、ワインの自家醸造は許容されていたため、ブドウの作付面積は倍増し、素人が作った質の悪いワインが量産され、若者や女性もアルコール飲料を嗜むようになり、ワインの需要自体は禁酒法前より倍増したとも言われます。また、その影響か、アメリカ人のワインの好みは禁酒法施行前と施行後でがらりと変わってしまったそうです。

 禁酒法廃止後、ワイン需要を見込んで復活したり新創業したワイナリーもありましたが、実際にはワイン需要は戻りませんでした。アメリカ人のワインの好みの変化もあったのでしょうが、何より禁酒法施行中に起きた、1929年10月の「暗黒の木曜日」を発端とする世界恐慌の影響です。
 不況から世界的にワインの需要が落ち込み、安酒が好まれ、低品質で安いワインもどきが出回ったり、産地偽装されたり、生産者が利益の出ないブドウ栽培を諦めたためブドウ畑が荒廃したり、と言った事態が世界中のワイン業界で起こりました。例えばカリフォルニア州では禁酒法直前には700件余り、禁酒法廃止後の1934年には800件程のワイナリーが操業していたそうですが、10年後には465件にまで減ったそうです。

 そして世界恐慌を引き金に社会不安が高まり、1939年9月に第二次大戦が勃発。1945年8月、日本の降伏により第二次大戦は終結します。

カリフォルニア・ワインの大躍進

 1943年、カリフォルニア州ナパ・ヴァレーのチャールズ・クリュッグ・ワイナリーをロバート・モンダヴィが買い取ります。彼は1962年にヨーロッパのワインを視察したことで、アメリカのワインの品質の低さに気付き、高品質ワインの生産を目指すようになりますが、弟ピーターと経営方針で対立した末、1966年に独立し、オークヴィルにロバート・モンダヴィ・ワイナリーを開きました。
 彼の技術やマーケティングにより、ナパ・ヴァレーのワインは世界中に知られるようになり、ロバートは「カリフォルニア・ワインの第一人者」「カリフォルニア・ワインの父」とまで呼ばれるようになりました。

 1976年、アメリカ建国200年を記念してパリのインターコンチネンタルホテルにて、当時はまだ無名だったカリフォルニア・ワインの試飲会が開かれることになります。当時のフランスのワイン界を代表する著名人9人を審査員に迎え、カリフォルニア・ワインとフランスのワインが混在した白ワイン10本、赤ワイン10本をブラインド・テイスティング(ラベル等を除き純粋に現物だけでワインを評価すること)し、色・香り・味・バランス各5点(計20点)満点で評価すると言うもの。カリフォルニア・ワインは禁酒法の影響で古いヴィンテージ(製造年)のものが少ないため、公平を期すべく年代を1970年代前半に揃え、赤ワインは若いためデキャンタージュ(デキャンタと呼ばれるガラス容器にワインを移すことで味わいを整えること)されたそうです。
 試飲会の結果、合計得点で最高を取ったのは白ワイン、赤ワインともカリフォルニア・ワインでした。この結果はギリシャ神話の「パリスの審判」に例えられ、世界中のワイン生産者を驚かせ、カリフォルニア・ワインが世界に知られる切っ掛けとなりました。
 ついでにフランス人のプライドも逆なでしました。カリフォルニア・ワインが勝ったのは若いワインだったからで、十分に熟成したボルドーの赤ワインなら勝てる、と主張されたので、10年後の1986年に同じワインで「リターン・マッチ」が開かれることになります。しかし「リターン・マッチ」でもカリフォルニア・ワインが最高点を取り、その後の2006年、2017年の「リターン・マッチ」でもカリフォルニア・ワインが最高点を取りました。

北アメリカデッキを振り返る

 北アメリカ(と言うか初期を除けばほぼアメリカ合衆国)のワインの歴史を振り返ったところで、ワイナリーの四季の北アメリカデッキの中身を確認してみましょう。

  1. 開拓者

  2. 最初の商業ワイナリー

  3. 最初のスパークリングワイン

  4. 禁酒法時代の幕開け

  5. 初期のワイナリー

  6. ボルドースタイルのワイン

  7. 禁酒法時代

  8. アメリカワインの躍進

 フレイバーのタイトルを見ると、順番が前後していますが、アメリカ合衆国のワイン史上で起きた重大事件が列挙されています。
 「開拓者」はジョン・アドラムのカトーバ種のブドウ、「最初の商業ワイナリー」はニコラス・ロングワース1世のワイナリー、「最初のスパークリングワイン」はロングワース1世のスパークリング・ワインについて、とカトーバ種のワイン関連の出来事です。
 「初期のワイナリー」は1860年にニューヨーク州に設立されたプレザント・ヴァレー・ワイン社、「ボルドースタイルのワイン」は1887年にグスタフ・ニーバムがカリフォルニア州ナパ・ヴァレーに設立したイングルヌック・ワイナリーについてです。この辺りはあまり触れてませんが、詳しく触れるとそれだけで記事が1本書けそうな気がします。
 「禁酒法時代の幕開け」「禁酒法時代」はいずれも禁酒法とその影響についてです。
 実は第二次大戦後の詳しい話は除くつもりだったんですが、その予定を変えたのがこの「アメリカワインの躍進」で、パリスの審判について触れた内容になります。

 書いてるうちに詳しく書きすぎた気がして、北米入植やワイン生産の拡大辺りだけでももう少し削りたかったんですが、上手く取捨選択できなかったですね。むしろこれでも全然書き足りてない予感。メリケンワイン史恐るべし。


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