ボードゲーマーに贈る「ワイナリーの四季:ザ・ワールド」の歴史的背景〈オセアニア編〉


ボードゲーム「ワイナリーの四季」とは

 アークライト/米Stonemaier Gamesより発売されているボードゲーム「ワイナリーの四季(原題:Viticulture)」は、両親から譲られた廃業寸前のワイナリー(ワイン醸造所)を立て直すワーカープレイスメントです。

 「ワイナリーの四季」には基本セットに加えて、ゲームに様々な追加要素を付け足すことのできる拡張セットがいくつか発売されていますが、中でも全プレイヤーが協力し合ってワインの販路を全世界に広げる「ワイナリーの四季 拡張 ザ・ワールド」では、アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニア、南米、アフリカの6大陸それぞれに「イベントデッキ」が用意されており、いずれか1つのデッキを使ってワイン生産史をなぞりながらゲームを勧めます。時間が止まったりはしません。

 今回は難易度「通常」のオセアニアデッキを題材に、オセアニアのワイン史を見ていきたいと思います。

オーストラリアとワイン

 アジア編でも触れましたが、ざっくり解説しておくとブドウの原産地は全陸地が繋がっていた頃の西アジアで、氷河期と大陸移動でブドウの繁殖地は分断し、西アジア、東アジア、北米大陸南部に分かれました。
 オセアニア地域は比較的早い時期に他の大陸と隔絶し、海に囲まれたこともあって、有袋類などの固有種が数多く繁殖した反面、ブドウとは長く無縁の地でもありました。

 そんなオーストラリアに最初のブドウの苗木が持ち込まれたのは18世紀末、1788年のこと。
 オーストラリアに最初に到達したヨーロッパ人は、1606年、オランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーンだそうで、その後もオランダやスペインは何度かオーストラリアに探検家たちを送りましたが、ヨーロッパで高く売れる特産品がなかったため、オーストラリアは放置されました。しかし1770年、イギリス軍人のジェームズ・クック、一般に「キャプテン・クック」として知られる彼がオーストラリアとニュージーランドの領有を宣言し、イギリス人の入植がはじまります。
 18世紀後半、イギリスで産業革命が起き、貧富の格差が拡大して貧民の犯罪者が増加すると、イギリスは収監しきれない囚人を海外の植民地へ送りました。当初は北米大陸に送り込んでいましたが、1776年にアメリカ合衆国が独立したため、今度はオーストラリアへ囚人が送り込まれることになります。その第一陣がシドニーに到着したのが1788年1月でした。
 このとき経由地の南アフリカ・ケープタウンで栽培されていたブドウの苗木が持ち込まれ、ニュー・サウス・ウェールズ州の初代総督であるアーサー・フィリップ大佐により、入植記念として現在のシドニー王立植物園の辺りに植えられたそうです。しかし降水量の多いシドニーは雨に弱いブドウの栽培に適さず、また到着が1月(南半球なので夏ですね)でブドウ栽培に適さない時季であったことから、このブドウは育たず腐って枯れてしまったとか。

 シドニーはブドウに限らず、土地が痩せていて農業に適していませんでした。また送られた囚人の大半はロンドンのスラム街出身で、技術や知識を持つ者が少なく、労働意欲も低かったため、入植初期は食糧不足に悩まされ、一時は飢餓状態に陥る程だったとか。フィリップ大佐は出発前からインフラ整備要員の少なさを訴えていましたが、上司に却下されたそうです。
 そこで周辺の土地を調査し、シドニーから北西に25kmほど内陸に入ったパラマッタ川沿いの土地が農業に適した肥沃な地と分かると、住んでいたオーストラリア原住民アボリジニを追い出し、1789年に囚人ジェームズ・ルースに食糧生産のための土地が与えられました。当時の価値観では囚人に土地を与えるのは異例でしたが、同年にはオーストラリアで初めて小麦が収穫されます。もっとも、追い出されたアボリジニが土地を取り返そうとしたため、1805年に最初の和解が成立するまで、たびたび紛争に晒されたようです。
 1791年には、囚人監督官として雇われたドイツ人フィリップ・シェーファーにパラマッタ川の支流沿いの土地1haほどが与えられ、彼はそこに1000本のブドウの木を植えます。これが付近にある「ヴィンヤード」の地名の由来だとか。彼は英語が喋れなかったそうで(だったらなんで雇ったんだよ)、囚人監督官としては大して働けず、ブドウ園も最初は収穫がありましたが、数年後に病気で全滅したそうです。
 1795年にはオーストラリア初のワインが生まれたとされていますが、その詳細は分かりませんでした。

 時間は前後しますが、1790年には囚人を乗せたイギリス移民船団の第二陣がシドニーに到着します。この船団の中には、後に「オーストラリア牧羊業の父」と呼ばれるイギリス軍人ジョン・マッカーサー中尉がいました。
 彼は移民船の船長や歴代総督といろいろ揉めましたが、副総督フランシス・グロースの依怙贔屓によりニュー・サウス・ウェールズ州で主計官や公共工事の視察官と言った重要な役職を歴任し、1793年にはパラマッタ近郊に与えられた40haの土地を、妻の名から「エリザベス農場」と名付けました。そしてグロース副総督の下、酒類や羊や捕鯨などの取引、囚人労働などを軍部で独占するカルテルを結び、これは後に「ラム軍団」とも呼ばれるニューサウスウェールズ軍団に繋がっていきます。これらから莫大な利益を上げたマッカーサーは、当時のオーストラリアで随一の大地主となりました。
 彼は1797年に、自分の農場3.5haにブドウを植えたそうですが、当時はそこまでブドウやワインの生産とは深くかかわっていなかったようです。

 1798年、ナポレオン戦争の最中にフランスの私掠船ラ・ヴェンジェンス号がイギリス船を襲撃し、このときナント出身の乗組員アントワーヌ・アンドレと従兄弟のフランソワ・ド・リヴォーがイギリスの捕虜となりました。フランスに「ラ・ヴェンジェンス」と言う名の船は複数あり、特に1800年にアメリカ海軍のUSSコンステレーションと一騎打ちしたラ・ヴェンジェンス号が有名ですが、こちらは私掠船として使われたことがなく、彼らが捕虜となった詳しい経緯は不明です。
 捕らわれた二人はイギリスで自分たちを「ワイン生産者」と主張し、その結果シドニーへ渡ることになります。二人は1800年にシドニーへ到着し、パラマッタにブドウを植え、1803年にはフランス語の指南記事を翻訳し新聞に掲載しますが、ブドウを植えては疫病で枯らしを繰り返して1万2千本以上を植えて枯らしたそうです。彼らは同じく1803年にオーストラリアで初めてワインを醸造しましたが、生産量は40ガロン(英ガロンなので約180リットル)と規模の割に少なく、当時の総督フィリップ・キングが「昨年収穫できた最高のブドウからワインを造ろうと試みたが、あまりに出来が悪かった」と評しており、これが史上初のワイン批評だとか。
 1804年、シドニー北西のキャッスル・ヒル地域で囚人の反乱が起き、フランソワ・ド・リヴォーはそれに参加したため、反乱鎮圧後に植民地から追放されました。彼がその後どうなったのかは分かりません。
 残ったアントワーヌ・アンドレは1811年に逝去しますが、彼の子孫は姓を英語風に「ランダース(L’Andre→Landers)」と変えてワイン醸造を続けたようで、2023年現在もオーストラリアのランダース・ワインと言うブランドに名を残しています。

 1806年4月、イギリス人農場経営者グレゴリー・ブラックスランドがシドニーに到着。すぐに広大な土地や牛を入手し、農場経営を始めます。当時の彼は畜産ばかりやっており、ブドウの栽培には手を出していなかったようです。

 イギリス本国に羊毛の質を認められたジョン・マッカーサーは、牧羊に専念すべく1802年頃に軍を除隊したものの、依然「ラム軍団」との強固なコネを持ち、気に入らない総督の首を挿げ替えるほどの権力を持つに至っていましたが、1808年、遂に「ラム酒の反乱」と呼ばれるクーデターを起こします。これにはグレゴリー・ブラックスランドも一市民として参加したそうです。
 しかし軍人だった「ラム軍団」は反乱罪を恐れ、マッカーサーは弁明のため1809年、イギリス本国に渡ります。彼は自身の罪状を認め、ロンドンでの起訴は免れたものの、ニュー・サウス・ウェールズで起訴されることになったためオーストラリアへ戻れなくなります。こうしてクーデターは1810年に収束しました。
 マッカーサーは期限付きの国外追放処分を受け、ヨーロッパで羊毛の市場調査をしたり、1815年から1816年にかけてフランスでブドウ栽培技術を学んだります。そして1817年、マッカーサーは公的な問題に干渉しないとの条件で、ニュー・サウス・ウェールズへ戻ることが許されました。彼が留守の間も、オーストラリアに残った妻子は彼の農場を守り続けていたそうです。

 グレゴリー・ブラックスランドは1813年、自分の牧場を広げるべく土地を求めてシドニー西のグレーター・ブルー・マウンテンズ地域を探検し、オーストラリアが広大な陸地であることを確認します。
 その褒賞で土地を得たブラックスランドは様々な植物の栽培を試し始めました。1816年から1818年には「クラレット(claret)」と言う品種のブドウを南アフリカから持ち込み栽培します。「クラレット」とは「薄い赤」を意味するフランス語でボルドーワインの別名ですが、そのボルドーを含む南仏には「Claret de Gers」あるいは「Claret de Gascogne」「Blanc Dame」などと呼ばれるブドウ品種があるようで、ブラックスランドの「クラレット」もこの品種かも知れません。彼のブドウは疫病に強く、そこから醸造した酒精強化ワインのサンプル樽を1822年にロンドンに持ち込むと、イギリス王立芸術協会によって銀賞が与えられたそうです。

 1824年、フランスでワイン醸造学を学んだ土木技師ジェームズ・バズビーがシドニーに移民します。当初は鉱物の調査をしていたそうですが、1825年にシドニーから海岸にそって北へ約150㎞のところにあるハンター・ヴァレーの土地を手に入れると、そこにブドウを植えました。並行してリバプール(ビートルズの故郷ではなく、シドニーの西の方です)近郊の学校でブドウ栽培の教師となります。

 オーストラリア大陸の南東、シドニーから約250kmの距離にあるタスマニア島には1803年に最初の移民が入植していましたが、1823年頃、元囚人のバーソロミュー・ブロートンがプロスペクトに、タスマニア初の商業用ブドウ園を開設しました。彼は1827年に打った広告で「昨年のブドウからシャンパンを真似て造ったワイン200ガロン(英ガロンなので900リットル余り)」と書いており、この頃には既にワイン生産が軌道に乗った様子が伺えます。

 ジョン・マッカーサーは帰国後もニュー・サウス・ウェールズの大地主として、依然、強い影響力を持っていました。彼はまもなく公職に復帰し、相変わらず財を増やすことに執心し土地を独占したり総督と揉めたりしていましたが、一方で牧羊やワイン生産には真摯に取り組んでいました。
 彼は国外追放中、ブドウ栽培を学んだフランスやスイスでブドウの苗木を手に入れており、帰国後にシドニー近郊のペンリスに設立した商業用ブドウ園で繁殖させ、各地に植えたそうです。しかしこのブドウは「true to typeではなかった」ため、できたワインは期待外れだったとか。その後ブドウの品種を適切なものに変えたことで、1827年に初めて商業ベースのワインを造る事に成功。1830年にカムデンに2つ目のブドウ園を作ったところ、良質のブドウが収穫でき、1832年にはオーストラリア初のブランデーを輸出したそうです。

 ジェームズ・バズビーは、1827年に学校の管理者が変わったことで教職を失います。その後は政府に与えられたブドウ栽培とは関係ない仕事をこなしていましたが、一方で1828年頃から自身のブドウ園に本腰を入れ始めたようです。そして1831年にブドウの改良研究のため、一度イギリスへ戻りました。
 彼は自費でスペインとフランスを訪れ、フランス・モンペリエの植物園で437種、ルクセンブルクの王立苗木園で133種、その他含めて計678種のブドウを入手しました。また、イギリス・キューガーデン近くのサイオンハウスでも44種のブドウを入手したそうです。
 また彼はイギリス滞在中、植民地局に様々な報告書を提出し、1832年3月にニュージーランドの英国駐在員に任命されました。これを受け、バズビーは1832年10月にシドニーに戻ります。
 帰国したバズビーは、持ち帰ったブドウの苗木約2万本を各地に分配し、シドニーやカムデン、アデレードの植物園に寄贈したり、自身のブドウ園に植えたりしました。シドニー王立植物園のブドウは残念ながらほとんど枯れてしまったそうですが、確かオーストラリアで最初のブドウ(枯れた)もシドニー王立植物園の辺りに植えられたんじゃなかったっけ……? 

 1834年、スコットランド人の自由移民ウィリアム・ライリーは、それまで住んでいたシドニー南西のラーバートから、メルボルン北東のヤラ・ヴァレーへ移ります。彼は二人の弟と共に家畜を陸路で運んだそうです。彼らはこの地を開墾して牧畜を営みつつ、1838年にラーバートから持ち込んだブドウを植え、ヴィクトリア州で最初のブドウ園を設立しました。このワイナリーは、原住民に「イエリング」と呼ばれる土地であったことから「イエリング・ステーション」と名付けられ、一時は衰退しましたが、2023年現在もワインを醸造しています。

 南オーストラリア州では1836年、イングランド人実業者のジョン・バートン・ハックが、ノース・アデレードのチチェスター・ガーデンズにブドウを植えたのが最古の記録だそうです。
 1838年には、当時内戦状態だったドイツから、宗教弾圧を受けたプロテスタント旧ルター派のプロイセン人がオーストラリアへ移住しました。彼らは移住当初はジョン・マッカーサーのカムデンのブドウ園で働いていたそうですが、1842年にバロッサ・ヴァレーへ移住し、そこがドイツのライン川流域と似た環境だったことから、ドイツの品種を使ったワイン生産を始めたそうです。
 ワイン生産者の中にいたかは分かりませんでしたが、この頃のドイツ移民には牧師もいました。宗教弾圧から逃げるための移民ですから、当然と言えば当然です。中世ヨーロッパでは教会でワインが醸造されていたこと(詳細はボードゲーム「ドン・ピエール」の記事に譲ります)を考えると、ドイツ移民の中にワイン生産に詳しい識者がいた可能性は高いと思います。
 ここに来てオーストラリアにようやく、他の地でワイン生産を経験した確かな人々がやってきたのです。今日では「オーストラリアワインの父」と呼ばれるジェームズ・バズビーすら、移民前にはワイン醸造を学んだだけの土木技師でした。

 またワイン・ソムリエ試験の過去問によると「1840年代にタスマニアの州都ホバート近郊で小規模なぶどう栽培が行われて」いたそうですが、調べてみるとどうやら、この時期にホバート南東のポート・アーサーにガバメント・ガーデンズが設立され、実験的に苗木栽培がおこなわれていたようです。

 概して、植民初期のオーストラリアではブドウがマトモに育たず、育つようになっても品質が悪かったので苦心した様子が伺えます。当時のイギリスではブドウが育たず、ブドウ栽培やワイン醸造に精通した人材がいなかったことも一因と思われます。
 そんな彼らがここまでしてオーストラリアでワインを作ろうとした理由は、本国イギリスはワインの最大消費国でしたが、前述の通り当時はワインが自国で生産できず、オーストラリアでのワイン生産をイギリス政府が推奨したからです。
 他にも、彼らは「ワインを作ればオーストラリアは文明化する」と考えていました。ワインはキリスト教に必須のものですから、恐らく彼らにとっての文明化とはキリスト教化だったのではないでしょうか。
 そう言えば、諸星大二郎『マッドメン』にも、パプア・ニューギニアの未開の村に宣教師がやってきて布教し、現地の文化を破壊する(そして文化人類学者が憤る)シーンがありました。そんな一神教に凝り固まった連中が上っ面だけの多様化を謳うとか糞喰らえ。

 で、結局オーストラリアで初めてのワインってどれよ!?

ニュージーランドとワイン

 オーストラリアと同じくブドウのなかったニュージーランドに最初のブドウが植えられたのは1817年のこと。イギリス人宣教師サミュエル・マーズデンの指導の下、英国聖公会宣教協会の農業監督官チャールズ・ゴードンが、ニュージーランド北島のケリケリに実験的に100種余りを植えたそうです。そしてマースデンは日記に「ニュージーランドの土壌と気候はブドウ栽培に適している」と書き残しています。
 1770年にジェームズ・クックが領有を宣言した後も、ニュージーランドへの積極的な移民は行われていませんでしたが、1788年にシドニーにヨーロッパ移民の拠点ができたことにより、彼らはニュージーランド原住民のマオリ族と接触を持つようになりました。
 マースデンは1794年にオーストラリアへ移民し、土地を手に入れると牧羊を始めます。彼は羊毛の質を重視したジョン・マッカーサーと異なり、羊毛と食用の両方に使える羊の育成を目指しました。その後、1809年にマオリ族の酋長と知り合ったことを機に彼は、マオリ族やニュージーランドへ行き来する船乗り等と交流を持つようになり、英語とマオリ語の対訳表を作ったりしたそうです。
 しかしニュージーランドへ自発的に移住したヨーロッパ人の中に宣教師がいないことを嘆いた彼は、マオリ族への布教を目的に1814年、他の宣教師たちと共にニュージーランドへ渡ります。彼はニュージーランドへ移住はしませんでしたが、7度ニュージーランドへ渡り布教活動したそうです。

 1831年、イギリス滞在中だったジェームズ・バズビーは移民局に様々な報告書を提出しますが、その中にはニュージーランドに関する報告書もありました。これを受けてバズビーはニュージーランドの英国駐在員に任命されますが、任命されただけで特別な権限は与えられなかったそうです。
 彼は1833年から1840年の「ワイタンギ条約」締結までニュージーランドに滞在しますが、その間の1833年にケリケリから程近いワイタンギのブドウ園でニュージーランド初のワインを醸造したそうです。このブドウ園については、1835年に当地を訪れたチャールズ・ダーウィンの日記にも残されているとか。

 1838年、フランス人のマリア会宣教師たちがニュージーランドに上陸し、翌1839年にはワンガロアで晩餐式用のワインを醸造するようになります。彼らはその後ホークスベイに移り、1851年にパコウハイの伝道所にワイナリー「ミッション・エステート」を併設。伝道所は1858年にミーアニーに移転しましたが、ワイナリーを広げ、1870年には最初の商業用ワインを販売した記録が残っているそうです。ミッション・エステートは2023年現在までニュージーランドに残る最古のワイナリーとして知られています。

 ニュージーランドのワイン史は詳しい資料が見つけられなかったので、ざっくりあっさりしたものになってますが、むしろオーストラリアのワイン史が濃すぎた。

オセアニアデッキを振り返る

 オセアニア各地のワインの歴史を振り返ったところで、ワイナリーの四季のオセアニアデッキの中身を確認してみましょう。

  1. ヨーロッパからの移住者

  2. オセアニアにおけるフィロキセラ

  3. 接ぎ木

  4. 国際的なワイン賞

  5. 初めてのブドウ畑とワイナリー

  6. 過剰生産

  7. きびしい気候

  8. 新しい技術

 フレイバーのタイトルを見ると、順番が前後していますが、オセアニアのワイン史上で起きた重大事件が列挙されています。
 前述した出来事は「ヨーロッパからの移住者」「初めてのブドウ畑とワイナリー」「きびしい気候」で触れられていますので、それ以外を見てみましょう。
 「国際的なワイン賞」は、イギリス移民のジョージ・ウィンダムが1827年に設立したブドウ園「ダルウッド・ヴィンヤード(後のウィンダム・エステート)」のワインが、1867年にパリのインターナショナル・エキシビジョンで受賞したことなどについて触れられています。
 「オセアニアにおけるフィロキセラ」「接ぎ木」は、19世紀後半に起きた全世界規模のフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)禍と、その対策についてです。この害虫は世界各地のブドウ畑に壊滅的な被害を齎しましたが、オーストラリアでは徹底した検疫により、被害をニュー・サウス・ウェールズのみに留めることに成功しました。この害虫を除去するのは困難で、汚染された地域は、耐性を持つアメリカブドウを台木にした接ぎ木で被害を食い止めましたが、接ぎ木によりブドウの品質も変わったとか。自根のブドウの古木は限られた地域にしか残っておらず、そこにはオーストラリアも含まれています。
 「過剰生産」「新しい技術」は第二次大戦後のオーストラリアでのワイン生産についての現状が書かれています。
 しかしオーストラリア開拓初期は、波乱万丈かつ様々な先駆者がやってきたおかげで、めちゃくちゃ密度詰まってますね……


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