見出し画像

罪は罪を生み、妥協は妥協を生みます

[列王記 第一 16:30,31,32,33]

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。

今日の聖書箇所
I列王16:29〜34

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

オムリがそれ以前の誰よりも悪い王であったと聖書は語りますが、オムリの子アハブは北イスラエルの歴史上、最悪の王となってしまいます。

アハブはかろうじて残っていた主なる神に対する信仰を完全に捨て去り、徹底的な偶像崇拝を北イスラエルにもたらしたからです。

その原因の一つは政略結婚したシドンの王の娘、イゼベルによるものです。イゼベルは聖書の中で最大の悪女と呼ばれます。イゼベルはアハブを惑わし、北イスラエルにバアルとアシェラという偶像礼拝を持ち込み、北イスラエルを偶像国家へと変えてしまうのです。

アハブは首都サマリアにバアルのために神殿と祭壇まで作り、国をあげて偶像を崇拝するようにしてしまいました。

しかしアハブの時代にも国は安定し、豊かだったのです。それゆえそれ以前の王たちにようにクーデターによって殺されることもなく、アハブの権力はますます強くなっていったのです。

北イスラエルの初代の王、ヤロブアムから始まった偶像崇拝はアハブの時代に頂点に達します。このことから罪の恐ろしさ、罪の力の強さを教えられます。一つの罪はさらに大きな罪を生み出し、小さな妥協は際限のない妥協へとつながり、やがて取り返しのつかない事態にまでなっていくのです。

アハブの時代にエリコという町を再建する人がベテル人ヒエルが登場します。エリコはイスラエルがカナンの地に入って最初に占領した町であり、主なる神の奇跡によって城壁が崩れ落ちたことで有名です。

ヨシュアはそのエリコを再建してはいけないと厳しく命じました。

[ヨシュア記 6:26]

ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」

神に呪われた罪の町エリコを再建するということは神への挑戦であり、反逆だったからです。しかしアハブの時代にそれがなされていくのです。エリコの再建はアハブの許可のもとでなされた一大事業でした。

アハブもヒエルも公然と神の言葉を無視して神に挑戦していったのです。その結果、神の呪いの言葉はそのまま実現してしまいます。

[列王記 第一 16:34]

彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。

これはアハブと北イスラエルの民に対する警告でした。アハブと民が偶像崇拝の罪を犯し続けるなら、やがて神の言葉の通りに呪われて滅亡するしかなくなるということです

しかしアハブはこのようなしるしを見ながらも全く心を変えることはなくますます偶像を崇拝していくのです。その心はますます頑なになっていくばかりでした。

罪の恐ろしさは罪を犯せば犯すほど、人の霊的な感覚と良心がマヒしていくことです。より大きな罪を平気で犯すことができるようになり、罪が罪であるとも分からなくなっていくことです。

人が罪を犯し続けていくとその罪がその人の人格に根付いてその人格を破壊してしまうことです。人が全く変わってしまうのです。その背後には悪魔がいてその人を罪によって支配していくのです。

それゆえ小さな罪の段階でそれから離れることが何よりも大切なことになってくるのです。日ごとに小さな罪をも悔い改め、それを断ち切っていくこと、それが私たちの人格と人生を守るのです。

しかし私たちは弱く、それが良いことだと分かっていてもなかなかそうはできません。それゆえ教会に集い、共に御言葉を聞いて、お互いのために祈ることが死活的に重要なことになってくるのです。

人は交わる人によって大きく影響を受けるからです。アハブがこれほどまで罪を犯してしまったのはイゼベルの影響を強く受けてしまったからなのです。

罪の力は強力で恐ろしいものです。小さな罪はやがて雪だるまのように大きくなりその人と家庭、共同体を破壊してきます。それゆえ罪と戦う必要があるのですが、その戦いは一人ではほとんど不可能なのです。

罪を憎み神を愛する聖徒たちの中にとどまることが必要なのです。神は愛だから罪を犯したって大丈夫、恵みだから全て赦されているというようないい加減で適当な偽者と交わっているならやがて私たちもそのような者になってしまいます。

神は愛だからこそ罪を一つ一つ悔い改めて赦していただき、祈って聖霊様の力と助けによって御言葉に従う者となり、豊かないのちと祝福を受け、幸せになりなさいと言っているのです。

次の御言葉を心に刻んで、罪と妥協することなくイエス様の血の力、聖霊様の力で勝利する者となっていきたいものです。

[ヤコブの手紙 1:14,15]

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?