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熊本の大学生によるスポーツ語り!

こんにちは!

熊本の大学2年生が、「スポーツ」というものを勉強している中で率直に感じたことを
「スポーツ×○○」というテーマで気ままに論じます!
今回は、、、

スポーツ×性別!

「スポーツと性別って一体何の関係があるんだろう?」と思ったそこのあなた!
スポーツって、実は男尊女卑野郎なんです、、!!
正確には、もともとのスポーツにそんな性格があったわけではなく、
スポーツを時代とともに作り替えて、うまいこと活用してきた大人達が
男以外を排除する性格まで加えてしまった、という感じです!
それでは!スポーツの歴史をかるーくさらいつつ、スポーツの性別的な特徴を見ていきましょう!
※絶賛勉強中の大学生が書いています!多少間違った点もあるかもしれませんが、ご了承ください、、!
なお、本文では生物的性差を「セックス」、社会的性差を「ジェンダー」と表しています!

近代スポーツのおこり

「スポーツ×性別」というトピックを扱うには、まず
近代スポーツのおこり
についてさらわなくてはいけません!
近代スポーツは、産業革命真っ只中のイギリスにて起こりました。
近代オリンピックの父と呼ばれる「クーベルタン」が主導して、イギリスの大学教育の基盤であった「パブリックスクール」を中心とする学校機関にスポーツを導入。それによって、スポーツマンシップを大切にし、フェプレイの精神を重んじる、チームプレイでは1人1人が責任感を持ち、健やかな身体も育む、そういった性質を持つ近代スポーツが、ヨーロッパを中心に世界中に広がっていったのです。ちなみにこれ、文面だけ見ればクーベルタンは「すごい人!」という感じですが、実はこの人、この「スポーツ」というものを”使って”、心身共に優秀なイギリス兵隊を誕生させようとしていたのでした。こちらも掘ると面白いけど、今回のトピックとはずれるのでまた別の機会に!
話はさておき、このパブリックスクール。実は、女子の入学が認められていませんでした。先述したとおり近代スポーツはこのパブリックスクールを中心に広まっていきますから、そのスポーツは当然「男性の」スポーツになりますよね。つまるところ、「スピード、瞬発力、筋力」といった男が圧倒的に有利である能力が、近代スポーツの基盤となっている訳です。
ちなみに、クーベルタンが復興させたとされている近代オリンピックの第一回・アテネ大会にはおよそ250~300人くらいの選手が出場したとされていますが、(文献ごとに、記してある出場者数が異なるのです、、!)女性選手は0人でした。その後、第二回のパリ大会にはテニスとゴルフで19名の女子選手が出場をしていますが、これでも全体の1.8%です。近代スポーツの始まりが、女性選手にとってはとても苦しかったものであることが分かりますね。

近代から現代へ

では、近代~現代におけるスポーツの性別的性格はどのようになっているのでしょうか。まずは世界レベルで見てみましょう。
スポーツに転機を訪れさせたのは、奇しくも「スポーツをする環境」をたくさん奪っていった「第二次世界大戦(以下、WWⅡと記す)」でした。
WWⅡ後、大きく分けて2つのものが拡大していきます。1つ目は「自由」の風潮、2つ目はテレビなどの「メディア」です。戦後世界的に拡大していった自由の理念はスポーツにも波及し、それまで男性によって厳しく弾圧されてきた女子スポーツは「個人の自由」というスローガンのもと、広がりを見せていきます。その広がりを助長したものこそ「メディア」です。特に有名なのが「アンデルセン」さんですよね。1984年のロサンゼルスオリンピックにて、その年初めて五輪競技に取り入れられた女子マラソンに出場した、スイス代表のアンデルセンさん。1位がゴールしたおよそ20分後、よろめきながらトラックに姿を見せるのです。でも決して諦めることなく、必死にゴールする姿をメディアが大々的に取り上げ、「苦しくも必死に健闘する女性アスリート」として全世界に映像を放映するのです。
今みてもとても感動するのでよろしければぜひ!

とまあ、このような感じで近代~現代にかけて女性スポーツもどんどん台頭していき、今日では少なくとも「機会」という観点で、女性がスポーツから不条理に追放されるような事態は限りなく少なくなったと言えるでしょう。
ちなみに、日本においても同じ様な経緯を辿って女性スポーツは確立されていきます。やはりWWⅡの敗戦が大きく影響しており、その後日本国内でもひろがった「自由」の風潮がスポーツにも大きな影響を与えたみたいです。
こう見ると「スポーツ×WWⅡ」を掘り下げてみても面白そう、、、と、まあまた話が脱線してしまうのでこの辺で。

「モノセックス」な現代スポーツ

では現代スポーツにおいて、全ての性別の人が同様にスポーツに取り組める、スポーツを享受出来る環境が整っているのでしょうか。
私はそんなことまーったくこれっぽっちも感じません!
たしかに、時代の変遷と共に随分と女性スポーツも力を付けて、今やレスリングやバレー、水泳や卓球など、男子スポーツに劣らない迫力を見せる種目もたくさん登場しています。
しかし!!それでもやはり現代のスポーツは、男性以外の性別の人達を排除する性別を持ってしまっているのです。
例えば皆さん、サッカーの国際大会を想像してみてください。男子サッカーと女子サッカー、どちらを見る機会が多いでしょうか?恐らく多くの人が、男子サッカーを目にする機会が多いのではないのでしょうか。他にも、男子スポーツをメディアが取り上げる際、その迫力ある試合や体格、スーパープレーを中心的に取り上げます。しかし女子スポーツはどうでしょう。たとえば女性選手がしているネイル、ピアスに注目したり、「料理上手や家事が好き」など、一見スポーツとは全く関係の無いようなことまで大きく取り上げられてはいないでしょうか。これについてはもちろん諸説ありますが、まずスポーツそのものが男性を対象にして登場・成長し、それを取り上げるメディアの人達も多くが男性であることから、明らかに男性スポーツと女性スポーツで着眼点に差があるのです。そもそも僕個人としては、たとえ仕方が無いことであったとしても「男性」と「女性」でスポーツが分かれていることもどうかと思いますし、その理由を「体格差がある」だったり、「男性と女性とでは釣り合わない」なんて言ってしまう大人の人達を僕はあまり好きにはなれません。近代以前の古代において、スポーツに近代・現代ほどの性差は無く、もっと遡れば、狩猟時代に余暇の活動として集落の皆で取り組んだ遊びがスポーツの起源だと言われています。現代の「男子スポーツと女子スポーツは分かれていて当然」っていうある種の不文律自体、「女性は男性に比べて身体が弱いから」というパターナリズムであって、「性別を超えてジェンダーフリーな社会を作って行こう」とする現代社会と逆行していると感じてしまうのです。

そもそも男性と女性だけ?

長くなってきましたので、最後に皆さんと一緒に考えたい問題だけ記して終わりにしたいと思います!
皆さんは「テストステロン」をご存じでしょうか。これは男性ホルモンに代表されるホルモンで、簡単に言うと「テストステロン」の数が多ければ身体的に男性に近く、少なければ身体的に女性に近い、というものです。実はオリンピックなどの世界大会において、このテストステロンをもとにした出場資格検査が行われているのです。
仕組みはいたってシンプル。選手1人1人のテストステロン値を計測し、一定値以下であれば女性競技に参加することが可能である、というものです。これは女性競技の公平性を保つ為のルールであると理解していますが、初めてこの事実を耳にしたとき、(もちろん今もですが)とても疑問に思ったことがあります。
この検査方法で判断をする場合、心は女性だけど体格的に男性である人はどうなるのでしょうか。
世界には、身体と心の性が一致していない人が多く存在します。身体能力は男性でも、心は女性である人は恐らく男性競技に出場しなくてはいけないのでしょう。まあ全く関係無い人からみれば大した問題でも無いのかも知れませんが、本人の気持ちはどうなるでしょう。スポーツには接触の多い種目、上半身露出が当たり前の種目がたくさんあります。こういう点でスポーツは男性以外のプレイヤーのことを全く考慮していない「モノセックス」な性格を持っていると言われるのです。
といっても、最初に言ったとおりスポーツがもともとこういった性格を持っていたわけではありません。スポーツは私達の生活に浸透し、「見る」スポーツからは感動や喜びを、「する」スポーツからはやりがいや楽しさを、「支える」スポーツからは自己肯定や帰属意識の醸成を私達にもたらしてくれます。しかし、最も重要に捉えるべきは、あくまでスポーツは「客体」であるということです。主体である私達の考え方次第で、スポーツは善にも悪にも変化するのです。
スポーツが、誰しもが何の縛りもなく平等に、でもって一緒の空間で楽しめるものになるように、、スポーツを正しく押えていきたいですね。


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