女であること


行きつけの男性浴場で
『女である自分』を自覚させられ

やっぱり「女である」とは、「見られる存在」ってこと?
少なくとも、
性」とは、
女を見ること」だとわたしは思ってますが。

見る能力といふか、見るといふサガは男性のもので、
だから、
ナルキッソスは男性。

泉に映る自分の姿に見惚れて、焦がれ死に。
水仙の花になっちゃった。

女の人は、鏡の中に「女」は見るけど、決して
自分の姿
は見えない。

鏡の中の「女」を化粧☆するために、鏡を見る。だから、鏡を見れば見るほど、ますます「自分の素顔」は見えなくなる。

☆けそう。顔や身なりを装ふ。身じまひをする。表面を磨いたり飾ったりすること。

AIの描く美少女や美女のやうに、女の人は女であればあるほど、誰でもない、一番多くの男性の性欲を刺激する

となっていく。

いくら鏡を見ても、そこに自分はない。
男性たちが見る、女
がゐるだけだ。

それで、女の人たちは、露出的な服装をしてゐても、極端な場合、みずから全裸になって男たちの前で踊ってゐても、男たちが
いやらしい目で見てゐる
と感じて、不満に思ふ。
どうやら、芸術品の壺でも観賞するときのやうな視線を望んでゐるらしい。

確かに、男たちのそれは、人間としての自分を見ずに、まるで、肉屋の店先にぶら下がった動物の肉片かのやうに見る視線だ。

うまそうだとか、そんなに食欲をそそらないとか、そんなふうに感じてゐる視線だ。



若さを失っていき、女として男性の性欲を刺激する度合いが逓減するにつれて、ちゃうど、ダム建設のときに水没した村が、日照り続きで水底に見えてくるやうに、その女の人の、
自分自身、他の誰とも違ふ人間としての自分、その人の人間そのもの
が見えて来る。

おばさんとかおばあさんとか、そうなったとき、女の人は、初めて、
一人の人間としての素顔を男たちにさらすことになる。

それを避けようとして、西洋の女の人たちは、ああした色彩豊かな服装を考案し、ますます化粧を濃くして、
いつまでも若さを失はない
といふ幻想
にすがらうとする。
それが文化になってる。

西洋では、正式の場では、女の人は、必ず、肌を露出しなければならない。


王室の人々がお出ましになるほどの公式の場では、
女の人たちは、何歳になっても、シミだらけの背中や腕に白粉を塗りたくってデコルテを着なければならない。
そんな、痛々しい西洋の女の人達に比べると、着物といふものがある日本の女の人たちは、
若さに過剰に頼ることのないfemininity
を維持する道を見いだせる可能性がある。



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