教育から見えてくる近代社会

管理されてることを嘆き、
常識に縛られてゐることを呪ひ、
自由をひたすら望んで、自由を賛美する。

そんな時代では、登校拒否とか不登校とかも、学校に迷はず通ってゐることよりも立派であるやうに言はれたりします。

それでみんな疑問を感じないのだらうけど、わたしは、違ふ。
大事なことを見落としてゐる感じがするの。

先づ、話の前提として、
忘れてほしくないのは、わたしたちは、近代になってから、やっと安全安心な社会を作れたといふこと。
つまり、
①水や食料には決して不足しない。
②大型肉食獣の餌食には絶対にならない。(だから、熊が出ただけで「子供の命が!」と大騒ぎする)
➂雨風を完全に防ぐ家屋を持つ。(こんな魔法使ひが出してくれたやうな家には王侯貴族であっても、二十世紀になってからでないと住めなかった)
④人間が棲むところのすべてにガス水道電気のライフラインを完備する。(一度、一週間、蝋燭とか灯油式ランプだけで暮らしてみてください)
⑤夏の暑さ、冬の寒さを防ぐ機械を持つ。(二十世紀の半ばまで、老人は夏冬の寒暖によって淘汰されてきましたが、今は、夏も冬も越してぴんぴんして自動車を暴走させてる)
⑥病気に罹ったりや怪我をしたりしたら病院に誰もが行ける。
そんな社会です。

そして、そんな社会の一員になるために必要なのが学校教育。

学校教育は、近代になって発明されたものだといふことはよく知られてゐます。そして、学校制度は、産業革命以後の
①ライン式製作を行ふ工場労働者と、国民国家を維持するための
②徴兵制軍隊に必要な兵士
になれるやうな人民を養成するためだ、といふことは、最近は、中二の男子ですら得意気に語ってゐたりします。

それで、今の教育が
画一的管理的
なのは、最初から人民を管理するための画一的な訓練だったからで、つまりは
学校教育とは、一種の洗脳だ
といふ話になります。

(ここで終はったらわたしの記事であっても珍しくスキもつくのでせうが、
残念、終はらないの)

でも、ひとつ見落としてゐるのは、学校教育が、
一斉授業によってなされること。
教育学を専攻した人なら、「『一斉授業法』を発明した十七世紀のとある人物について知るところを記述せよ」なんて試験問題があったかもしれませんね。

一斉授業は、
①できるだけ多くの人に
②大量の知識を
➂できるだけ速やかに
身に付けさせるために考案されました。

これは、大量の紙に、活版印刷機が、またたくまに、一冊の本に必要な文字が印字するのと同じことです。実際、かうした印刷技術をメタファーにして、一斉中業法は、「教刷(術)」と名づけられました。
教えを刷り込む、刷り込まれ知識、といふことです。
先生は、印刷機で、生徒は白紙の束です。

なんで、さうするのか?
人民を、ライン工場の作業員や兵士にするため?
それもあるけど、もっと大本は、近代社会を維持するためです。

そして、近代社会とは、はじめに書いた①から⑥が一つの漏れもなく揃ってゐる社会のことです。

かういふ社会のメタファーになるものがありますよね。
さうです、動物園です。
私たち近代人は、自分の住むところを国民国家、つまり動物園にして、人民はみんな檻に入れられたのです。

檻の中では、水や食料の調達の心配は一切ありません。狩猟や採集や農耕のかはりにやることは、ただお金を払ふこと。お金によって、ありとあらゆるものがなんでも手に入る。それが近代社会といふ檻の中です。
さうして、ときどき、鉄格子を掴んで、
「貨幣制度をぶっこはせ!」とか
「お金のために、もっと大事なものを失くしてしまってゐる」とか、
なんだかんだと文句を並べたあげく、最後は、金切り声になって、
「ここから出せ!」
と叫んでゐます。

出れば、いいぢゃん。
管理されてることがいやなら、管理されないところに行けばいいし(管理が無い、管理がずさんなところは、アフリカとか中近東とか、いくらでもある)、常識に囚はれてゐるのがいやなら、非常識なことを言って非常識なことをすれば、いい。

それだけ。

繁華街に出て、殺したいから、人を殺した人、
生きてゐても意味の無い人は死なせてやらうと障害者を殺した人、
ああいふ人たちは、檻から出て、常識から自由になり、管理をものともせずに、自分らしく行動しました。

人間が自由に行動すると、かうなる。
他の動物のやうな<個体の行動を管理する本能>から自由になってゐる分、人間は脳外に本能装置を作り出す、といふ本能になってゐます。本能とは個体をいやでもおうでもそのとおりにさせます。
自らが作り出す本能装置である社会によって「人間性」を管理しないことには、大変なことになる。

独裁者といふのは、人間性を解放できた人のことです。
独裁者を許さないために、人間はさまざまな管理体制を考案し、政治的な制度も各種編み出してきました。

民主制が魅力的に見えるのは、独裁と最も遠い感じがするからです。
人間が独裁を怖れるのは、人間個人、だれか一人の人間性を解放することは、原子一個の中に閉じ込められたエネルギーを引き出すことに似た、たいへんな出来事であることを(無意識に)知ってゐるからです。

私たちは、お互ひを怖れてゐるから、どうしても、個人を縛り付ける常識や道徳、個人の群れを管理する公権力装置を必要とするのです。

自由になれば、素晴らしいと思ってゐる人は、檻の外がディズニーランドかユニバーサルスタジオと勘違ひしてゐるのだと思ひます。
檻の外には、自然があるだけです。
その自然との闘ひ、なんとか自然を征服して管理したいといふのがヒトである人間に組み込まれた本能でした。そのためにチンパンジーには無かった強大な前頭葉を搭載されてしまったのです。

檻の中の大半の人は、檻があることで、生きていける。近代人が檻から出たら、たちまち自然環境に淘汰され、資源や領土のために互ひに殺し合ひ、また、縄文時代の平均寿命に戻るといふことを無意識でわかってゐます。
日本がまだ縄文時代だった時、同じころの中国では、礼楽刑政による管理社会といふ檻を創設したため、人口が爆発的に伸びました。
檻とは管理であり、檻とは常識であり、檻とは道徳です。

「檻から出せ!」と叫ぶ人の声を聞くと、私たちは、その時だけであっても、少し気が晴れます。
管理教育に対して真っ赤になって怒ってゐる人の姿は、檻の中から出たら生きていけなくなってゐる私たち近代人の鬱憤を、情けない形ではありますが、少しばかり晴らしてくれてゐます。

校長とか教頭とかが怒鳴られてると楽しいみたい。
命が命がって言ってますが、相手が暴力団だったら子供が実際に殺されても怒鳴り込まないよね。
弁護士にお金を払ふだけで、後は、家で泣いてるはず。
コロナのときも、マスクのことで校長先生を問ひ詰める動画が出て、けっこうな数の人が見て喜んだらしい。管理されてることの鬱憤が観てるときだけは発散できる。さういふ動画がYouTube動画では多くなってます。

わたしが、政治家やお金持ち批判が嫌ひなのは、さういふ人たちに対する正義の怒りの根っこが、自分たちが、政治家やお金持ちたちが維持してくれてゐる近代社会といふ檻から出られないといふ情けない現状にあると思ふからです。
政治家や富裕層など特権階級の行状に腹の底から怒りを感じるほどの人なら、誰もが、心の底、無意識では、
①自分が檻に入ってをり、しかも、
②この日本といふ最先端の動物園から出たければ出て、他国や他の地域で
➂自由になって望み通りに野垂れ死ぬこともできるのに、
④決して出ようしないことを、
しっかり無自覚を維持しながら同時に、しっかりと自覚してゐるはずです。

近代社会で生きる人は、誰であれ、何かわからない不幸を抱へて暮らしてゐます。
この漠然とした不幸が、誰の、何のせいであるかを声高に叫べば、人が集まる。
でも、飽きると、また、バラバラに散って、それぞれの不幸を生きる。
ぬるま湯みたいな不幸に浸りながら、テレビ映画SNSを覗き込む毎日。
近代社会とは、そんな社会です。



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