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災害時のあかりのはなし #3

2016/08/15 @気仙沼 Kさん、Hさん

気仙沼のあかりカフェなどを通して知り合った方々にお願いをして、次にお話を聞けそうな方を紹介して頂くことを続けました。皆さんご多用の中、厭わずお話を受けて下さり、私たちも非常に身の引き締まる思いでした。

Kさんは、永らく遠洋漁業の漁師さんとしてお仕事をされていました。東日本大震災発生当時は気仙沼市本吉町前浜地区の自治会代表をされていた関係で、避難所の代表をもおつとめになりました。避難所を運営されていた際の記録ノートを持ってきてくださり、物資の数量や次々出てきたであろう注意点に関するメモなど、とても細やかに記されていました。

地区では37-8世帯が流されてしまいました。地区内にあるお寺が避難所となり35人くらい宿泊していました。                   最初の支援物資が届くまで3日くらいかかり、それまでは家庭の備蓄でまかないました。この避難所が自衛隊からの食事配給のハブとなり、家に避難している人たちも含め多いときは400食近く捌きました。市から、避難所内で他の家と仕切るダンボールが必要か打診がありましたが、避難所内で話し合い、周りはみんな顔見知りなので仕切りの設置は断りました
"電力復旧まではひと月、水道復旧までは3カ月ほどかかりました。
あかりに関していうと、まずは「生活を助ける光」が優先。夜間に作業が必要な時には、車のヘッドライトを点灯しました。バッテリーをとっておくために携帯電話の光も点灯するのが惜しいようなな気持ちでいました。 
非常用の発電機は地区ごとに備えてあり、避難所の中で使えるように配線を組みました。時間を決めて使うようにしました。
蝋燭は重宝しましたね。また、木が豊富なので火は絶やしませんでした。夜間は焚き火を消して灰汁を載せておいて、翌朝に杉の葉など柔らかい葉をかぶせて火をおこしていました。火に人が集まっていましたね。
お盆頃から「心の慰めの光」を考える余裕ができたように思います。
震災から5年経って、仮設住宅の親睦会が解散し、公営住宅のコミュニティ作りに力を入れていく段階になってきています。ですがこの運営を「地域」でやらなければ意味が無いのではないか、この段階で何をすればよいのか、課題や懸念が非常に多い状況です。7月末に復興住宅の鍵の引渡しがあって、引っ越し終わるのがそろそろです。コミュニティ作りはまだこれからの課題ですね。

Kさんがお話しされている途中で、Hさんが合流してくださいました。HさんはNPO法人「はまわらす」で海の面白さを子供に伝える活動をされています。KさんとHさんがお話しされている様子からも、世代を超えて地域内での交流が綿密なことがよくわかります。

Hさん:

私は発災後は自宅で過ごしていました。8日の余震が非常に強く、縦に大きく揺れ、色々なものが壊れました。
単一の電池が足りなかったこともよく覚えています。
震災のあと、実用性や必要性の高いものがやはり優先になるので、ちょっとした”贅沢”がとても嬉しかったです。例えば、可愛いろうそくを使ったり、友達が雑誌を差し入れしてくれたり。                 支援ワークショップなどでジェルキャンドルづくりもありましたが、こどもは大事に持ち帰りたい気持ちになるので、キャンドルとして使うことへのハードルは高かったですね(笑)
震災後、街中でいつも明るかった場所が暗くなっていたので、階上地区にパチンコ屋ができたときはまた明るくなって「いいな」と思いました。
海の面白さを子供に伝える活動をしていますが、親が警戒することもあり震災以降は海に近寄らないこどもが多いのが最近の状態です。海の怖さと共に楽しさも教えていきたいと思っています。

あとからほかの地区の方々にお話を聞いてわかったことですが、Kさん、Hさんがお住まいの気仙沼市本吉町の前浜地区は地域を上げて非常に学習熱が高く、また結束も非常に強いお土地柄だとのことでした。

避難所内で話し合い、あえて間仕切りを設置しない方針をとるなど、住人間の距離感の近さは、大変な避難生活においても大きな力になったことと思います。

今回のお話からわかったこと

‐ 非常用発電機、ろうそくの備蓄は非常に大事

‐ 心の慰めになる光が必要になるタイミングがくる

- 避難生活においてもちょっとした”贅沢”のもたらす喜び

‐ 夜の街並みに光が戻るのはうれしい


Kさん、Hさん、どうもありがとうございました。


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