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「親ガチャ」社会の幸福度は本当は高い?

 社会正義を巡る議論の中でしばしば「正義」とされるのが「流動性」だ。特にアメリカ人は流動性信仰に近い物があるようだ。「アメリカンドリーム」という国民的ナラティブがそうさせるらしい。貧しい生まれの人間であっても努力すれば頂点に立てる社会、それが彼らの理想だ。家庭環境や人種によって上昇が阻害されることがあってはならない。逆に恵まれた立場の人間であっても、無能で怠惰な人間はどんどん下に下がっていくべきだとされる。

 日本も同じような議論がしばしば巻き起こる。「親ガチャ」はいい例だろう。「あなたが東大に入れるのは親が金持ちだったから」という言説は良く聞かれるようになった。親ガチャとはある種の環境決定論であり、流動性の低い世襲制カースト社会をイメージしているだろう。批判的な論者の理想とする社会は、貧困層も対等に受験戦争に参加し、富裕層の「才能のない」生徒を蹴散らして、競争社会の勝者となる社会である。

 私は流動性を肯定する考え方には懐疑的だ。人間は利得よりも損失を重んじる生き物だ。これは行動経済学的に古来から指摘されている。要するに、1万円を失った時のダメージは、1万円をゲットした時の嬉しさよりも遥かに大きいということだ。だから人間は多少チャンスを失ってでもリスクを減らそうとするし、こうした動きは株式市場でも見ることができる。

 これは社会階級も同じだろう。階級が上に上がると嬉しいが、階級が下に下る時の悲しさは想像を絶するものだ。例えば「王子と乞食」のように、1人の貧民が王族に成り上がり、1人の王族が入れ替わりに貧民に落とされたとしよう。成り上がった方は生活水準が上がって喜ぶかもしれない。ところが成り下がった方は自殺未遂レベルでダメージを受けるだろう。階級が入れ替わることは全体の幸福感の総和をマイナスにする。流動性の高い社会では人々は可能性を見出す以上に転落を恐れるので、常にビクビクしていることだろう。

 こうなると、階級間の移動が全くない社会が理論の上では一番幸福ということになる。厳格なカースト制社会だ。実際に、インドではそれぞれのカーストが自分の持ち分に応じた暮らしと役割に満足し、現状の安定に感謝するように説かれてきた。一見ディストピア的に見えるが、実は人間の本能的には心地よい状態なのだ。

 この構図は日本でも現れている。例えば正社員と非正規の格差の問題だ。特にロスジェネ世代の場合、正社員と非正規社員の間には埋めようがない大きな壁が横たわっている。正社員と非正規社員の間の流動性は低い。原因の一つが日本の法制度によって正社員が手厚く守られていることにある。お陰でセーフティネットの外に追いやられた非正規は悲惨極まりない目に遭うことになった。ところが、この制度が見直される可能性は無い。正社員の保護を無くしたら非正規の人間は成り上がるチャンスが生まれるが、それ以上に正社員が阿鼻叫喚するからだ。先述の理由と同じように正社員と非正規の流動性は低いほうが効用が高く、法制度もそうした価値観を反映し、カースト構造を永続化させている。

 カーストの固定化は実は身近なところでも置きている。序列が逆転することに人間は耐えられない。例えば「年下の上司」問題がそうだ。日本人は中学校で年功序列社会に組み込まれるので、無意識に中学校の学年が上の人間を「格上」と刷り込まれる。なので、年下の上司現象が起きると心理的にダメージを受けてしまうのだ。このダメージは年下の人間が出世できるというメリットを上回っている。年功序列はまだ平等だから良いが、他の社会階層にもこの構図は見いだせるので、なかなかえげつないことになる。

 青年期はともかく、ある程度年齢を重ねると人間は安定を求める。日本型雇用も結局はそういうことだ。新卒就活で身分が確定し、後は定年するまでそれが続く。逆転することは難しいが、転落するよりはマシだ。全てが安定した社会の中で人々は安楽に暮らすことができるだろう。

 これは学歴と環境に関する論に対しても言うことができる。しばしば環境に恵まれた人間だけが一流大に入学できることを「不公平」だと言う人がいる。この意見に賛同する人は多い。しかし、本当のところは環境格差で一流大の入学が決まる社会の方が幸福度が高い可能性がある。年収200万の家庭で育った人間が高校を卒業して年収200万の暮らしをしてもダメージは少ない。ところがエリートの子弟で何不自由なく育った人間が勉強が苦手という理由で大学に進学できず、年収200万の仕事についたら、精神的に悲惨極まりない人生になるだろう。実のところ、学歴社会の環境要因は受験戦争の恐ろしさを緩和していると思う。

 しばしば混同する人間がいるのだが、流動性と格差は別の問題だ。格差が大きくても流動性が高いという社会は理論上は存在しうるし、格差が小さくてもカースト社会というものも存在しうる。実のところ、社会格差を巡る不公平感の真の問題点は流動性ではなく、格差それ自体なのではないだろうか。格差が大きい状態で流動性を高めても、競争が激しくなるだけで、誰も幸せにならないだろう。受験に成功したら年収2000万、失敗したら年収200万という社会は非常に残酷だ。

 真に人々を不幸にしているのは流動性の低さそれ自体ではないのではないだろうか。流動性の低い社会では「親ガチャ」によって勝敗が決まるが、流動性の高い社会では才能や運によって勝敗が決まる。競争の性質が変わるだけで、人々が勝ち組負け組に分断されて絶えず争う状態に変わりは無いだろう。真の問題は格差と競争だ。格差が小さければ勝ち組になろうと負け組になろうと生活水準は変わらないので張り合う意味は薄くなる。競争が緩ければ当然人々がいがみ合う余地は少なくなる。

 実のところ、「親ガチャ」でその後がある程度決まってしまう社会は意外にも幸福度が高いのかもしれない。格差が小さければ、流動性が低くてもなんとかなる。例えばこういう社会を考えてみよう。高学歴エリートの家庭に生まれた人間はぼんやりとしていても一流大学に入る。マイルドヤンキーの家庭に生まれた人間は大学に行かずに高校で働く。ただし、両者の格差は大きくない。似たような食事を取るし、同じ病院で似たような治療を受ける。こうなると、「親ガチャ」要素は残っているが、そこまで幸福度は低まらないのではないか。少なくとも勝ち組が転落に怯え、負け組が復讐のチャンスを伺っている社会よりはマシだと思う。

 ちなみに、幸福感が高いのなら、なぜ固定化されたカースト制社会が作られないのかという疑問を持つ人もいるだろう。答えは簡単だ。カースト制社会を作ると誰も努力しなくなるからだ。石油収入が自動的に入ってくる国なら良いが、普通は人々が市場で切磋琢磨することで新しいイノベーションが生まれ、社会の活力が維持される。厳格なカースト制社会は経済がどんどん衰退していくので、本質的に不安定である。だから社会は個々人に競争を促すのだ。

 

 

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