ASDの書く文章とADHDの書く文章の特徴について

 最近はすっかり認知度が高くなったのが発達障害だ。筆者の周囲にも発達障害傾向が強い人間は大勢いる。というより、こういうのは際立った問題を抱えるケースのみが病的に扱われるのであり、傾向がある程度であれば世の中に沢山いるのではないかと思う。ただ、場所によってグラデーションがあることは間違いない。筆者が以前在籍していた東京大学には一般社会では例がないレベルでASD傾向の人物が存在していた。彼らはあまり一般社会で理解されているとは言い難い。今回は文章という側面から発達障害傾向の人間の特性について考えてみたいと思う。

ASDの書く文章は驚くほど普通

 ASDは空気の読めなさや独特の言動・行動によって目立ちやすい。ところが、こと文章となるとASD傾向の人間は驚くほど普通なのである。文章を呼んでもASDの人間を見分けることはできないと思う。対人関係の悩みや、人生観なども普通の人と変わらない。ASD傾向の人間は文章で人とコミュニケーションを取ったほうがラクなのではないかとも思う。

 また、見方を変えるとASD傾向の人間は最初から文章語で会話しているのではないかとも思える。使用する語彙や構文は極めて文章的だ。純粋な口語表現的な会話がASD傾向の人間は苦手なのかもしれない。Twitterのような媒体はASD傾向の人間と極めて相性が良いと思う。東京大学にはASD傾向の人間が多いと述べたが、これも文章語優位の脳の構造と関係がありそうだ。

ADHDの書く文章は特徴がある

 ASD傾向の人間は話せば容易に見分けることができる。一方でADHD傾向の人間は話しただけで見分けるのは難しい。空気が普通に読めるし、特に症状が顕在化しなければおかしな行動を取ることはないからだ。

 ただ、ADHDっぽい人間の文章を読むと、やや特徴あると感じる事がある。なんというか、次から次へとアイデアが出てきて落ち着きが無さそうなのである。言うならば、ドーパミン的だ。次から次へと展開が変わったり、やたらと情報量が詰め込まれていたり、テンションがおかしかったり、といった特徴を感じる時がある。

 やや偏見も入っているが、ADHD傾向の人間の文章は中高年以降になると相対的に目立つ。普通の人間は中高年になると「老成」するはずなのだが、ADHD傾向の人間は相変わらず学生のようなテンションである。実社会だと見た目や体力の問題で緩和されるのだが、文章には精神性が露骨に出るので、わかりやすい。

 

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