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【小説】ウソの行方 #1

明け方の4時過ぎ、いとこのホタルから電話があった。脳梗塞で入院中の父の容体が急変して助からなかったという知らせだった。ごめんね、突然で間に合わなかったと泣きじゃくっている。気にすることないよ、いろいろとありがとう。とにかく帰るからと電話を切った。

7年前には母が死んだ。自殺したのだ。連絡がつかなくなって3日目に山奥の温泉宿で見つかった。父との確執のあげく自死を選んだというのに、父と何回も泊まった宿で最期を迎えた。母はどこまでも夫しか見ていなかったと確信したのは俺一人ではないかもしれない。涙ながらに喪主挨拶をしていた父は何を思っていたのだろうか。父と母の濃密でとげとげしい交わりにさらされて育った俺としては何とも言いがたい結末で、言葉にできない感情はずっと胸にとどまったままだ。それきり、生きている父の顔を見ることはなかった。母を死に追いやった男と見なすのは酷だとわかっていても会えば父を非難してしまうだろう。などと考えているうちに実家を見失っていた。

7年ぶりの帰省では父の葬儀を取り仕切る。さらには保険とか年金、サブスクの解約とか遺品整理とか、持ち家をどうするかとかの俺にとっては最大級の厄介ごとが山のように待ち受けている。いや、厄介ごとというのはいかがなものか。生まれてきた者は一人残らずこの世から消えていき、誰かが後始末を引き受ける。誰からも看取られないまま逝ってしまった父親の、この世の片付けくらいは快くやってのけるのが供養というか礼儀だろう。育ててもらった恩返しの思いを込めてなどという殊勝さは持ち合わせていないが、会社を辞めて実家に戻るための公明正大な理由が欲しかったのは確かだ。そしてもう一つ、ここにきて顕著になったことがある。それは隠しきれないほどの歓喜を伴ってやってきた。いまだかつて経験したことのない解放感だ。母と父が死んで天涯孤独になった俺は不謹慎かもしれないけれど何をしても許されるような気になっていた。俺を叱ったり俺に絶望する存在は消え失せた。極端に言うと、これまでの良かったこと悪かったことのすべてを放り投げて逃走したとしても行方を気にする家族はもういない。生きて動けるあいだにこのような贅沢な時間を堪能できるとはなんという幸運だろうか。不謹慎といわれようがいきなり訪れた境遇の変化に心が踊っている。さすがのミズキだって、辺境の地方都市に帰るといえば追ってこないだろう。いやいや、さよならだけ言って姿を消せばいい話だ。

ミズキは高校の同級生で、つまりは同郷で同じ書道部だったこともあり、ずっと連絡は取りあっていた。進学しても大学の所在地が近かったので都会に不慣れな者同士として情報交換したり一緒に飲んだりしているうちに付き合い始めた。よくある話だ。その後のミズキはエリートサラリーマンをうまく捉まえて人妻になった。俺は裏切られたとは思わなかった。長く付き合ってきたからこそ、たまに会うくらいがちょうど良いのをお互いがわかり始めていた。だからミズキが結婚したときは心から祝福できたのだ。ところが、そこで終わりのはずが終わりにならなかった。ミズキはすぐに連絡してきて、結婚生活を続けるためにはユウスケが必要なのよねとすがるように言う。拒みきれなかった。それは決して未練とかではなく、ミズキを拒むにふさわしい切実な理由を持ち合わせていなかったせいだ。

本来なら飛行機を利用して一刻も早く帰るべきなのだろうがカーフェリーの予約を入れた。クルマを持っていくことにしたのだ。フェリーの出発時間は夜なのでいったん出社して上司に葬儀のため帰省する旨を伝え、最低限必要な申し送りをし、可能な範囲で私物を処分して必要なものを持ち帰った。もう出社する気はなかった。辞表を出すのは後日で事足りる。会社での仕事は大きな苦痛を伴うものではなかったが、特にやりがいは感じていなかった。父が死んだ今、もはや会社員であり続ける理由はない。7年間も父に会っていなかったのに、あれこれ言われるのが嫌で仕事を続けていたことに気づいた。どこまでも父に否定されるのを恐れていた。

翌朝、フェリーから降りてクルマを走らせる。7年ぶりの故郷の目立った変化もない街並みに軽く落胆したが、その安定感に安堵もしながら市街地を走り抜ける。やがて傾斜のきつい上り坂が見えてきた。かつての人気住宅地の入り口だ。ここを登りきった一角に実家があるのだった。駐車場にクルマをとめるとホタルが疲れ気味ではあるけれど昔と同じ顔で現れた。五つ年上のはずだが童顔のせいか若く見える。幼いころから近くで育ってきたので気の置けない関係だと勝手に決めつけてしまっている。
「久しぶり。すまないな、面倒かけて」
「とんでもない。知らないだろうけど、伯父さんとは気があったのよ。なぜだかわかる?」
「わからないね——」と返したが、本当は想像はつく。

葬儀は事前にごく少人数の一日葬を予約していたとかで滞りなく終えることができた。ホタルの準備のおかげだ。改めて礼を言うとそれには反応せず
「アパート探さなきゃ」とひとりごとみたいに言った。
帰ってきて知ったのだが、ホタルは俺の実家で暮らしていた。父がアパートでひとり暮らしのホタルに家賃払うのムダだからとか、居てくれるだけで心強いとか言って同居を促したらしい。
「あのさ、いったん東京に戻るので迷惑でなければ留守番を頼みたいんだ」
「えっ? つまりは引き上げてくるってこと?」
「そのつもり。当分はここで暮らそうと思っている。この家を整理したいんだよ。親たちの荷物であふれかえったままでは死ぬに死ねないからさ」
「えっ? ユウスケまで死んじゃうわけ? 勘弁してよ。でも意外に律儀なんだね。わたしだったら業者に丸投げするけど。留守番はできるよ、いつも通り仕事にも行くし残業もする。それで留守番になるならいいよ」
「助かるよ。実は俺、ちょっと立ちどまりたい気分なんだ。親父までいなくなったからか、気が抜けたというか。なので充電期間が必要かなと」
「ふーん。そういうこと言っているうちに年代物の引きこもりになった人を何人も知っているけどね」
「引きこもり、上等さ。何言ってんだか自分でもよくわからないけど、そういうことでよろしく。当たり前の話だけど、俺のごはんとか一切作らなくて大丈夫ですから」
「そんな事わざわざ言っていただかなくても、まったくそのつもりはありませんので」とホタルは笑顔で返した。

ホタルは保健師として役所に勤めている。母がまだ生きているときだったか、二日ほど行方不明になった。ホタルの父親が勝手にお見合いを設定してきて、それに激怒した彼女は置き手紙を残して連絡を絶ったのだ。詳しくは知らないが、騒いだら死ぬからと書いてあったらしい。だが月曜の朝になると何事もなかったように職場に現れてそれ以来実家には戻っていないという強者だ。父の葬儀のときも、自分の親とは視線も合わせなかった。彼女の場合、時間の経過は何の解決にもならないようだ。つまりは、ホタルも父も退屈しきった親戚たちにかっこうの話題を提供してしまった当事者同士だったのだ。二人に共通するのは過剰な正直さというか、要領の悪さだ。

東京に戻ると、どこかで見張っていたみたいにミズキから電話が入った。
「葬儀、お疲れ様。わたしには何も言ってくれなかったわね」
「なんで知ってんの?」
「同郷だよ、わたしたち。実家に毎日電話してるからなんだって知ってるよ。いとこのホタルさんがユウスケの実家にいることも」

次回へ続く


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