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【小説】ヒマする美容師の副業#4 チョウチョは飛んだのか(1)


予定のない一日を過ごしたいと代休を取った。アラームをオフにした朝を迎えられると思うだけで笑みがこぼれてしまう。それなのに目が覚めるとまだ暗かった。眠っても眠っても眠れる身体を維持できていると無邪気に信じていた昨夜のわたし。


予定のない一日にちょっといい気になっていたのに燃やせるゴミの日なのを思い出した。今日は何もしないと決めていたはずなのにゴミ出しをスルーできないだろう。誓って潔癖症ではないし、有毒ガスは発生しないだろうけれど悪臭が部屋を支配するという恐怖から逃れられないだけだ。


ゴミ出しのためだけに着替えてメイクする意義を見出せなかったので部屋着のままパーカーをはおりキャップをかぶりマスクをしてドアを開けるとお隣の猪狩さんがいた。誰にも会いたくないときに限って会ってしまう。望まないことは実現する? いや違う。恐れていることが実現するのだ。


「あら、美里ちゃんじゃないの。普段と全然違うから見まちがえましたよ」
「バレましたか。それより猪狩さん、もうお出かけですか? それヨガマットですよね?」
「そうなの。先週までは大手のフィットネスジムで習っていたんだけど全然うまくならないしお月謝高いのでやめたのよ。自分の運動神経は棚に上げてひどいよね、わたしも。今はあちこちのお教室の体験を始めたところよ」
「猪狩さんすごいですね。情報はどこで仕入れてくるんですか?」
「そこの小学校の隣に地区の交流センターがあってね、パンフレットがたくさん置いてあるし、職員さんがいろんなこと教えてくれるの」
「全然知らなかったですよ。わたしも行ってみようかな」
「そうなさいよ。夜のクラスもあるみたいだから」
猪狩さんは父方の祖母にしゃべり方が似ている。猪狩さんと話していると優しかった祖母を思い出していつのまにか和んでいる。


部屋着のままボーっと過ごそうと思っていたはずなのに交流センター行きは決定事項に昇格していた。外出しようと決めたせいか朝食を準備する気も失せている。何か食べようと思ったけれど朝の散歩の途中でオシャレなカフェを発見なんてことは奇跡に近いのでクルマで駅ビルに向かう。予定外の一日が始まっていた。


客が少ないのを期待して5階のカフェに入りかけたとき奇妙な動きをする黒い塊に気がついた。よく見ると全身黒づくめの女だった。漆黒の衣裳と好対照の透き通るように白い肌と言いたいところだが思いきり日焼していて露出部分はすっかり黒い装いになじんでしまっている。黒ずくめの女はカフェの隣の本屋と通路の境界線上にあって一見活字を追っているふうだけど焦点は合っていなくて、ひっきりなしにスマートウオッチを眺めては眉をひそめカフェ店内に視線を走らせてはため息をついているように見えてしまう。


不可思議な動きをする黒づくめの生き物から目が離せないでいるわたしも不可思議な動きをする生き物と化しているのだろうけど構うものか。不意にイッショケンメイという言葉が浮かんできた。黒ずくめの女がイッショケンメイの塊に見えた。一所懸命というのは歴史の授業で習ったような気もするけど自分の言葉として使ったのは初めてだろう。


わたしのイッショケンメイはどこに行ったか? どこにあるのか?


次回へ続く。


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