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進んでゆくために

高齢者とハンディキャップのある子供たち。
2足のわらじを履き、学んでいくこと。
そこにある2つの未来を見据えていくこと。

可能であれば、市民参加型の表現集団に所属すること。そこで創造し、自分を発揮すること。

母と別れてから、必死にその心の穴を
埋めようともがいてきた。
決して埋まらないその穴を
それでも何とかしようとして。

そのおかげで、大分笑えるようになった。
後は、何だろう。
他に何が必要だろう。

人生の余分なもの。
それが圧倒的に足りなくなった。
考えてみれば、そのことに気づく。

あんなに無駄なことが好きだったわたし。
古本屋、映画館、劇場に出かけること。
料理に使う食器を見ること。
珍しい調味料を試してみること。
お洒落をして、呑みに行くこと。
喫茶店で、小説や漫画を読むこと。

少しずつ
お友達と呑みに行ったり
料理の新しいレシピ本を買ったり
夫と一緒に昔のドラマを観たりしているけれど
何かが、以前とは違う。

そして、それはわたしの意識ひとつのことだ。
余分な感情。
余分なリラックス。
余分なたゆたい。
そのようなものが、今のわたしには欠けている。

自分の外側にまだ膜のようなものがあって
それに触れると
突然現実に戻るというような。

らしくないぜ。
わたしは自分に言う。
らしくないことは、やめようぜ。

もっと気を抜いて
もっと身を委ねて。

母の死は、敵意ある運命が
運んできた事象ではない。
それはわかっているはずだ。
母は、素晴らしい人生を生きたし
素晴らしい人間だった。

ならば、その娘は
いかに生きるべきか。

もっと破天荒に、もっと暢気に
もっとおバカさんに。
母がそばにいてくれた時と
全く同じように、笑いたいのだ。

それを、わたしは諦めない。
母が一番望んでいるであろうことを
わたしはやってみせる。

そのためには。
楽しむことだ。人生を。
もっともっと、遊びが足りない。
余分なものが足りない。
もっともっと、欲望のままに。

わたしは笑いたい。
くだらないことをしたい。
暇人だね、と誰かに
仕方ない顔をされてみたい。

流した涙が
そのガソリンになるだろう。
悲しみをもう一度招き入れることが
わたしを安らかにするだろう。

悲しみを抱えたこの心臓で
わたしは生きてゆく。
そして、ふざけ倒す。

愛とは、わたしが教わった愛とは
そんな感じのものだったからだ。

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