みお

演技をすることを愛しています。他には読書、映画鑑賞、イラストを描くことが好きです。何か…

みお

演技をすることを愛しています。他には読書、映画鑑賞、イラストを描くことが好きです。何かを作ろうとする誰かの文章を読めることが喜びです。

最近の記事

母のこと

どうしてなのか、わからないのだ。 演劇をやることのどこに 母の死を乗り越えられる理由があったのか。 わからないままだ。 勿論哀しくないわけではない。 思い出すことも沢山ある。 でも公演の前と後では全く変わってしまった。 自分自身の心が。 それがはっきりとわかる。 何かを排出し 生まれ変わる。 そのような感覚が少しあったように思う。 古い皮膚が剥がれ落ちて 新しい桃色の薄い皮膚が張ってくるように。 わたしは母と共に生きてきた。 お互いに、他にもっとすることはないのかとか

    • 続ける、ということ

      久しぶりの舞台復帰を終えて 今思うこと。 こんな苦しいことを 10年もやっていたのかー!っという 他人事のような驚き。 そんなにも好きだったか…という気づき。 ここから、また演劇を続けることは 簡単ではない。 わたしはかつてプロの俳優だった頃 結婚しない、子供を持たない 宣言をしていた。 演劇というものが、他者を排除する 時に傷つける構造だということを 理解していたからだ。 わたしなら、女優の妻は嫌だし 女優の母も嫌だ。 周りにいる人を寂しくさせてしまうことが この仕事に

      • ひっぱられる

        演劇には遠心力があるのだ。 しみじみそう思う。 一度触れてしまえば ぐるぐる回る銀河鉄道にでも乗ったかのように 降りることが難しくなる。 大体次の停車駅がどこなのかさえ不明だ。 でもこの鉄道の友人となり 永い旅を続けていきたいと願うのならば 時刻表と路線図に 誰よりも精通しなくてはならない。 身を捧げ、鉄道そのものとなる あるいはもはや、宇宙そのものとなる そんな生き方は わたしはもう選ばないからだ。 わたしには この地球での生活がある。 大切な家族と友人がいる。 家

        • 誰かの幸せが

          誰かの幸せが幸せなのだと気づく。 そんな1日だった。 先週は自分の舞台の本番だったけれど 今日からは先輩たちの本番である。 新しい集団に出会って ほんとうにずっと良くして頂いている。 皆さん優しく、謙虚で、ユーモラスだ。 自然と、何かお返ししたいと思う。 支えて頂いた分、支えたいと思う。 裏方として、お手伝いさせて頂く。 出演する俳優さんの緊張や悩みを ほんの少しだけ感じる。 それでもカーテンコールが終わって お客様と談笑している皆さんを観ていたら お芝居よりもずっと

        母のこと

          なぜ生きるか

          いつも思う。これは何なのだろうと。 芝居は祭りだ。あっという間に消える。 あんなに長い準備も苦しみも 公演が終われば跡形もない。 何のために、そこまでするのだろう。 なぜ自分は俳優でありたいのだろう。 わたしは母が死んでからずっと 本来の自分ではなかった。 それは認めなくてはならない。 もう人生が半分終わったような気がしたし それも仕方ないことだと思っていたのだ。 たった一度芝居をやっただけだ。 たったそれだけのことだ。 でもそれだけで わたしの人生は息を吹き返した。

          なぜ生きるか

          4分の3

          トラウマを克服すること。 それが今回の目的だった。 完全に入っているはずの台詞が 出ないと思い込むこと。 ちゃんと出来ているシーンが 空間が歪んでいるかのように 突然不安定なものに感じること。 ただ静かに観ているだけのお客様が 退屈しているように感じること。 そういう「弱い気持ち」 「自分を信じられない自分」を 克服したかった。 かつて、それに内側から押しつぶされ 外側からはいじめ抜かれて 精神を壊して わたしは芝居から足を洗った。 今回、またチャレンジすることは 簡

          4分の3

          わたしに出来ること

          準備がすべて終わって、あとは本番を待つばかりだ。 こんなに時間をかけさせてもらえたこと、はじめてかもしれない。 心が穏やかだ。 母は、悔やんではいないかと心配だった。 道を誤ったのではないか。 もっと他に、助ける方法があったのではないかと。 芝居の稽古を通して、母は死んだのだとわかった。 悩んでも上手くいっても、もう話すことは出来ないこと。 母はもうこの世にはいないこと。 母といた時間は、すでに過去であること。 時間は決して元には戻らないこと。 頭ではわかっていても 全

          わたしに出来ること

          言葉が語り始める

          簡単だ、と思うことがあるのだ。 このまま大きく声を張り上げれば 感情に溺れて泣いてしまえば わかりやすく芝居らしくなるのだ、と。 わかっていて。 でも、それは作品の品格を落とすから やめなさいと諭された過去を 懐かしく思い出す。 そこまでしなくても、お客様はわかる。 役者が思うより、お客様は聡明なものだ。 預ける芝居が大切だと かつて尊敬していた人に教わった。 その約束を守っていると 世間的には不器用と言われたり 演じる力を上手く発揮できないこともあった。 背景に徹して

          言葉が語り始める

          奪う側

          オッペンハイマーの映画が好評だということだ。 ずっと原爆投下を悔やまない姿勢のアメリカの 態度の軟化が見てとれる、などという記事を いくつか読んだ。 ヒロシマ・ナガサキでも上映されたのだという。 日本の映画監督がこの作品に対して アンサーになる映画を日本でぜひ作りたいと話していた。 どれもこれも、悪いことではないのだろう。 きっと… 何かの前進だと好意的に受け止めるべきなのだろう。 でも、わたしには出来ない。 それを容認することはむずかしい。 黒こげになったひと。 皮膚

          祝祭

          あなただけの、道の途上で。 あなただけに捧げる祝祭を。 わたしには呟くことしか出来ないけれど 踊ることも歌うことも かすかにしか出来ないけれど それでもあなたに向かって 紡ぎ出した言葉の糸を いま放射する。 生きていてくれて、ありがとう。 それじゃあね、またね。 またすぐに会えるよね。 優しさを勘違いしていて、ごめんね。 どんなことも一緒に、乗り越えられるよね。 明かりが入り 舞台に暗闇が降りる。 深く吸う息の中に あなたがいる。 開いた手のひらの中に あなたがいる。

          役に似た言葉

          演じるこころに似通った詩があったので 覚え書き。 大好きな井坂洋子さんの詩だ。 声 過度に 音楽をあびたあとは 麻痺した耳を休めたい インコの声が肩のあたりで まだいきているの と鳴く あなたの怒声が聞こえ 深夜 だれかにささやかれる 私は雨によみがえった芝の色を 灰が動くようにして見ている むかし誤って殺したインコのお墓は とっくに霊がぬけ出て それを見ることも 墓を想像することもむなしくなっている 内と外を仕切る 戸をぼんやりと思い描き 小学生の私を立たせてみる

          役に似た言葉

          人間の責任

          今回の作品で、大切にしたいことがある。 わたしが演じる役は 天皇制を現している、とも言われたり アメリカを指している、と言われたり 高度経済成長期を現している、とも言われる。 つまるところ、善なる側 市民の側、古き良き日本の側ではない ということが言える。 一生懸命、加害の側なのだと意識しながら 演じてきたが…今ひとつ 何かが足りなかった。 ふと、自分の家の本棚にある 緒形正人さんの「チッソは私であった」を 手に取る。 芝居で、わからなくなったら いつも最後はこの本

          人間の責任

          救い

          人は人に救われるのだ、と この年齢になって ようやくわかる。 震えていた自分を 奮い立たせて 通し稽古に向かう。 演出が 言葉をかけてくれた、と 皮膚が感じとる瞬間がある。 孤独な荒野でひとり 髪を振り乱してやっていたことを 誰かに、発見してもらえる 瞬間がある。 ああ。 あとは溢れるばかり。 言葉には出来ないことが この世にはある。 わたしは今日やっと気づいたのだ。 自分があんなに苦しかったのは プロだったからでも 調子が悪かったわけでもなかった ということに。

          なみだ

          涙が出た。 ただ恐くて。 どれだけ生まれつき強ければ どれだけ才能があれば そして、どれだけ努力すれば 恐くない、本番の日が 迎えられるのだろう。 恐くない、緊張しないという人もいるのだから 単純に向いていないということなのかもしれない。 体に震えがくる。 何が恐いのかすら、わからないのだ。 でも、今回は今までと少し違う。 マイナスに偏る脳内の要素が ひとつもないのだ。 優しい劇団員。 素敵な稽古場。 実直で穏やかな稽古。 家に帰れば 楽しみにしていてくれる家族。

          変なやつ

          子どもの頃 いじめられていたクラスメートを 助けようとした時 その子に「偽善者」と呼ばれた。 「あんたは何もかも持っている。 さらにイイヒトにもなりたいのか」と。 今その少女の聡明さに驚く。 いくら自分はただ友人になりたいのだと 言ったところで、彼女とわたしは 居る世界も価値観も全く違ったのだった。 でもわたしは話した。 「だからってずっと、いじめられているの? わたしを利用すればいいじゃない」と。 彼女はその時はじめて 「変なやつ」と言って笑ったのだ。 人から見れば

          変なやつ

          闘いとしての演劇

          米国と対峙していくことはきびしいことだ。 しかし、それでもわれわれは毅然として生きていこう。 ときに不幸な目にあうかもしれない。 でもそれをみんなで乗りこえていこう。 例えば、革命にはお金がかかる。 膨大なお金だ。 そのお金はどこから出るか。 大抵は、邪悪な者たちがお金を出している。 60年日米安保闘争において 金を出したのは、財界人だ。 安保闘争を煽ったのも 岸信介政権を倒すためでしかなかった。 樺美智子さんの死は、彼らにとって 降って湧いたラッキーだったのだろう。

          闘いとしての演劇