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復活の意味

わからなかった。知らなかった。
一度諦めたことは、そこで終わり。
何度も同じ問いかけが巡ってくることなど
思いもしなかった。

かつて演劇に人生の全てを賭けた。
そこで大きな喪失を味わい
悪あがきする前に兵を引いた。

それがしこりになって、ずっと残っていた。
でもそれが人生だとも思っていた。
何もかもは上手くいかない。
今が幸せならば、それ以上は高望みである。

それなのに。
光が当たりはじめている。
かつての傷に。
滞っていた血液が再び流れはじめている。

十代の頃どう生きていったらいいか
わからなくて、遠藤周作を読みふけっていた。
わたしはキリスト者ではなかったし
いまだに無宗教だけど
彼の語るキリスト教のこころを
とても美しいと思った。

「沈黙」においては
踏み絵を踏むことを強いられ
自分たちの信仰を裏切ることを
権力によって強いられる民衆たちに

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」
と語りかける新しいキリスト像を提示した。

そのキリストが
沢山の民衆に囲まれている中で
ひとりの娼婦が彼の足に触れた
そのことだけに反応する、というシーンもまた
印象的である。
「誰かがわたしの足に触れた」と
彼は言うのだ。そしてその者は泣いていたと。

わたしにとっての宗教とは
光であり、母なるものであり、復活である。

復活とは、肉体ごと再生することではなく
精神の崇高さゆえに
決して滅びず
人々の心の中、そして人生の大切な瞬間に
その精神自体が自ら活動し
人々に知らしめる
「自分の中に神が生きている」ということ。
そしてそれは「生まれた時からそうであった」ということに。

それを「復活」と呼ぶのではないのかと
考えていた。

わたしにおける唯一の宗教である
「演劇」が自ずから
動き出そうとしている。
わたしは敬意をもって見守り
その邪魔をしたくないと思っている。

何故なら、わたしの宿命を
決めるのはわたしではないし
わたしはわたしの宗教を
何よりも信じ愛しているからだ。

わたしの青春よ、ありがとう。
また顔を見せてくれただけで、幸福です。
あなたのしたいことを、して下さい。

信じるとは、敬愛するとは
わたしたちに
信じられない奇跡や夢を、見せてくれる。

でもそれはすべて、この体の中から。

復活の扉は、この暖かい心臓にある。

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