発達障害における「特性」という単語への違和感

発達障害者の凸凹を「特性」と言う風潮がある。

まず、特性とはそれらが持つものの性質である事。そして、得手不得手の個人差のことであり、それらは皆一様に持つものだと考えている。

発達障害者は脳に大多数の人間に本来備わっている機能に問題がある。だから障害なのであって、「特性」という軽はずみな言葉で片付けていいものではないと考えている。もちろん「個性」という言葉を使うのは論外だ。自分を例として医師に聞いたり他にも文献を漁ったところ、感覚過敏や神経系が弱い例が多く、単純な体調不良として表面化しやすかったり、私の場合は反芻思考により過去の嫌な事延々と考え続ける事もある。悲しい事にその事すら「個性」と言う人がいるのだから、結局当事者にしか分からない感覚なのだ。
率直に言うのであれば、「分からないなら上から目線の余計なアドバイスはいらない」と思う。

定型発達向けに作られた社会で、発達障害者の努力では埋められない困り事を「特性」という何となくマイルドな言葉でキラキラコーディングされるのは、かえって差別されているような、腫れ物扱いされているような感覚でどうも嫌な気分になる。

「障害」という直接的な言葉を使われるのが嫌な当事者もいるかもしれない。しかし残酷な事実として、私を含む発達障害者は障害を持っているのだ。「特性」というぼんやりとした言葉から「障害」という決定的な言葉に置き換える事により、定型発達の方々の障害者への意識改革に繋がると思っている。