ASDだって豊かすぎるくらいの感情がある

最近、広汎性発達障害であるとの診断が降りた。PDDかASDかは分からないが、特性傾向からASDだと仮定する。言語能力は高いらしく、言葉に敏感な自覚がある。その辺りも生きづらさに起因すると思われる。

よく「ASDは感情がない」とか、「感情に配慮がない」とかの記事を目にする。
私としては「そんなわけあるか!」と思う。むしろ豊かすぎて困っているくらいだ。
しかし今までの経験から、自分の思考回路や意見、感情がマイノリティである事を理解している。だから、表に出すことを諦め、定型に合わせて余計な事を言わない様に、言葉を選んで、自分の感情は押し込める。場違いで不適切とみなされるだろうと諦めているからだ。

過去に多く自分の感情を無視された経験から、人の感情を無視してはいけない事はよく知っている。私の経験則の偏見ではあるが、定型は自分の感情が理解されて当たり前だと思っている節がある。だからこそ私は、マイノリティである自分の感情を無視しているのだ。感情を捨てようとした事が何度もある。その方が否定も非難も余計なアドバイスもされず、楽だからだ。しかし私は人間であり、感情は元々備わっているもの。悲しい事に、感情を捨てる事は不可能だ。

「発達障害は相手の感情を無視して発言する」ともよく見る。そんなわけない。言ってはいけない事、言い回しのボーダーラインはしっかりと考えている。相手に共感も同調もする事は少ないが、相手を傷つける様な言葉や話題は選ばない。むしろ、私の目線で見たら定型も人に配慮しない発言をしている様に思う。実際に多く傷つけられてきた。

私の性格は冷酷だし、粗暴であり、嫌いなものに対してとても攻撃的だ。ただ、それは後天的なものも要因としてあると思う。価値観を否定され、意見を突っぱねられ、多数決で負け続け、軽率で配慮のない発言ばかり浴びてればこんな性格にだってなるだろうと思う。端的に言って、厭世観と絶望感、人間不信がえげつない。
しかし外では仮面を被り、なるべく朗らかに、自己開示を適度にしつつ無難な話題と言葉を選び、誰に対しても分け隔てなく接するようにしている。酷く疲れるが、自分でもとても偉いと思う。

まあ贅沢を言うなら、定型からももう少し人の思考回路や感情を理解する努力をして欲しいとは思う。いわゆる察して、というのは甘えだと思う。そんなに理解してほしい事があるなら、的確かつ相手の心情に負担を掛けない言葉を使って意思表示すべきだと思う。

結局人それぞれなのだと思うが、「発達障害(ASD、PDD)だから」といって、人の感情がわからない、人の心がないという先入観を持つのはとてもいけない事だと思う。その先入観は、誰も幸せになれない。