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自分を育てる

後れ馳せながら、初詣兼お祓いに行って来た。
地元の氏神様である小さな神社には1日にご挨拶に行ったのだけれど、私は毎年お祓いにも行っている。

今年はまだ後厄なので、しっかりお祓いしたいと思い、母と一緒に、毎年行っている少し大きめのお寺へ行ってきた。

お護摩の様子がよく見える、近い場所に座ることが出来たので、太鼓の音も、お経を読む声も、お坊さん達の様子もすごく近くで感じられた。

とても清々しい時間だった。

畳の上で正座をしていたら、
朗々と読み上げられるお経や、
焚き上げられるお護摩の気配に、
神々しさが感じられて、涙が出そうになった。

人に対して被害妄想してしまう自分、
誰かを怨めしく思ってしまう自分、
そういう重たい自分の感情が、
このお護摩で全部浄化されて、
誤解や、思い込みで誰かを憎んだり、
妬んだりしてしまう自分を卒業して、
本当の自分、ありのままの綺麗で輝いている魂の自分として生きて生きたいと強く願った。

お護摩の間中、そういう願いが溢れて来て、
本来自分が行くべき場所に、
行くべきタイミングで行き、
自分に与えらた使命をちゃんと果たせますように、と願った。

大きなことでなくて良い。
自分にとっての正しい道を歩いて行けるように、
人生を無駄にしないで過ごせる自分であれるように願った。

そして、今自分に必要なメッセージを下さい、とお願いしておみくじを引いたら、「育」とあった。

内容は、
「あれになろう これになろう と悩むより
 いつどんな時も誰の前でも変わらぬ存在に
 自分を育てよ 
 苦難と思うことも有難く受け取ること」
とあった。

すごく心に響いた。

自分を育てる。
どんな時も誰の前でも変わらぬ存在に自分を育てる。

なんて大きな言葉だろう。
そうか、大切なのは、何かになることではなく、
自分がどのように生きるかだ。

「誰の前でも変わらぬ自分」というのは、
簡単そうで、難しい。

どんな人にも平等な清々しい人に自分を育てられたら素敵だけれど、
実際は、意地悪する人には近づきたくないし、
威張ってる人や偉い人の前だと萎縮してしまう。

まだまだだなあ。
どんな時も誰の前でも変わらぬ自分って最強だよなあ。それが素晴らしい自分でないとしても、自分のありのままを受け入れて、自分自分として堂々と生きていけるようになりたい。

今年は、まずその始めの1歩に出来ればいいな。

そして、願望欄には、
「自分で自分の限界を決めず無心で挑むことで成就する」とあった。

自分で自分の限界を決めない。

私は諦めるのが好きだし、自分なんてこんなもんだろうと思って生きているのだけれど、ちょっと目を覚まさせられる言葉だった。

諦めるのもいいけれど、諦めないことも良いかもしれない。
限界を決めているのは自分だから。

諦めたらそこで試合終了だって、スラムダンクの安西先生も言ってるしなあ。

そして、行動範囲を広げるようにという文章もあった。
今年は、少し活動的になれたらいいな。
旅行も、もう少し沢山行きたい。
1人旅も良いかもしれない。

1月。

年の始めの月に、素晴らしい言葉をいただいた。

お護摩での爽やかな決意と共に、
今年も自分をバージョンアップさせるべく頑張りたいと思う。

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