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格を気にするひと(訳者あとがき2)

このところ翻訳する中で、格を気にさせすぎない日本語にする、ということを気にしていることがある。

学校で習う英文法では

〈主格〉  I  私が
〈所有格〉  my  私の
〈目的格〉  me  私を/私に

というのがある。ドイツ語やフランス語にもだいたい同じようなものがある。日本語文法では「ガ格」「ヲ格」「ニ格」などと呼ばれていて、これも似たようなものだ。

しかし、ぼくらは普段それほど格を意識して生活していない。
例えば「冷蔵庫にケーキあるから食べてね」と言うとき、「ケーキ【が】」あるのであって、「きみ【が】」「それ(ケーキ)【を】」食べてね、と言っている。でもそんなことは誰も意識していない。
これを「ケーキが冷蔵庫にあるからきみはそれを食べてね」なんて言ったら、カクカクしすぎていて読むにたえなくなる。(もちろんこの差は格だけの問題ではないけれど。)

なんてことを考えていると、「に」や「を」などの格助詞を使うのはださいんじゃないか、という過激な気持ちになってきて、ここ最近実際の翻訳の中でちょっと実験をしてみている。

 *

例えばネルヴァルの「幻想」の冒頭。

Il est un air pour qui je donnerais
Tout Rossini, tout Mozart et tout Weber,

この il est は il y a という意味らしいので、直訳すると、

ぼくがそれのためにロッシーニのすべてとモーツァルトのすべてとヴェーバーのすべてをあげてもいいような、
一つの歌がある

という感じになる。

行の長さはある程度そろえたいし、ロッシーニとモーツァルトとヴェーバーはどうしても同じ行に置きたかったので、「がある」というのをそのまま残すのは諦めようと決めて、一度こんな感じにしてみた。

その歌のためにはぼくは失ってもかまわない、
ロッシーニとモーツァルトとヴェーバーのすべてをも。

ここで引っかかったのが、「ためには」の「に」と、「すべてをも」の「を」。
「をも」は確実に格意識過剰な感じがするし、「ためには」も、原文にそうあったから訳しましたという印象がある。

最終的に「に」も「を」も取っぱらって、

その歌のためならぼくは失ってもかまわない、
ロッシーニとモーツァルトとヴェーバーのすべてでも。

とした。
接続助詞「なら」と副助詞「でも」の力で、ようやく日本語の詩として息づき始めた気がした。

 *

ハイネの「ぼくが涙をこぼすと…」の冒頭でも、同じようなことをした。

Aus meinen Thränen sprießen
Viel blühende Blumen hervor,

直訳すると、

ぼくの涙から
たくさんの盛りの花が萌え出る

となる。これでは「涙」のイメージがあまり広がらない気がしたので、涙を「こぼす」という動詞を入れようと決めた。

(少し脱線するけれど、こういう判断はどこまでも主観的なもので、ちゃんと説明できる根拠があるわけでもない。ただ、翻訳を読む限りは、何かしら訳者の色は入ってしまうものではある。
喜多尾道冬訳「ぼくの涙はあふれ出て/幾多のあでやかな花となり、」にしても、志田麓訳「ぼくの涙から咲きでた/たくさんのかぐわしい花々。」にしても、決して無色透明の訳ではない。
だからこそ、ほんとうは原語で直接読んでいただきたいし、それができないのなら、いろいろな翻訳が出回って、読者が自分に合うものを見つけられるようになるのが健全だと考える。)

本題に戻って、そこでできた訳がこちら。

ぼくが涙をこぼすと そこから
花々が芽生えて咲き乱れる、

「ぼくの涙から」と言う代わりに「そこから」と書くことにしたというわけだ。

ところが、この格助詞「から」が気になって仕方がなくなってしまった。
「そこから」なんて日本語でわざわざ言うのは野暮なんじゃないか、でもそれがないと原詩と違う絵になってしまう恐れがあるのではないか。さんざん迷った挙げ句、やっぱり「そこから」を取って発表してしまうことにした。

ぼくが涙をこぼすと
花々が芽生えて咲き乱れる、
ぼくがため息をもらすと
サヨナキドリの合唱に変わる、

これでよかったのかは今でも自信がないけれど、少なくともぼくの好きな、なめらかな日本語の調子にはなった。

 *

もう一つだけ格がらみの話を。

ツェランの「死のフーガ」は、ツェランの作品で唯一、句読点を完全に廃したスタイルで書かれている。

Schwarze Milch der Frühe wir trinken sie abends
wir trinken sie mittags und morgens wir trinken sie nachts

ぼくが見たすべての既訳で、日本語でも句読点もスペースもなしで文字を連ねている。
(正確には、ドイツ語では単語の間にスペースがあるのが当たり前で、日本語はそうではないので、ドイツ語ではすべての単語の間に同じようにスペースがあるのと同様に、それらの日本語訳ではすべての単語の間に同じようにスペースがない。)

ぼくもはじめはそうするのが忠実で正しいと思った。

明け方の黒いミルク僕らは夕方にそれを飲む
僕らは昼に朝にそれを飲む僕らは夜にそれを飲む
僕らは飲みに飲む
僕らは空に墓を掘るそこなら狭くない
ひとりの男が家に住む彼は蛇らと戯れる彼は書く
彼は日が暮れるとドイツへ手紙を書く君の金色の髪マルガレーテ
彼はそう書くそして家を出る星が輝く彼は彼の犬らを口笛で呼び寄せる
彼は彼のユダヤ人らを口笛で呼び出し地面に墓を掘らせる
彼は僕らに命じるさあダンスの曲をやれ

しかし、これでは原文と比べて圧倒的に読みにくいことに気づいた。

ドイツ語で例えば wir と書いてあったら、その瞬間にそれが主格だと分かる。この詩の場合、主格が出てくると、ほとんどの場合そこが文の境目になっている。だから、wir trinken sie mittags und morgens wir trinken sie nachts と書いてあっても、wir trinken sie mittags und morgens が1文で、 wir trinken sie nachts が次の1文だというのがすぐに分かる。

日本語の格は、名詞の後につく後置詞(助詞)によって示されるので、ここまで明快にはならない。
「僕らは昼に朝にそれを飲む僕らは夜にそれを飲む」と書いてあると、「飲む僕ら」まで読んだタイミングでは、「僕ら」がガ格だとは分からない。ヲ格やニ格かもしれない。「僕らは」まで読めば、どうやらガ格らしく見えてくるが、「飲む」が終止形なのか、それとも連体形で「僕ら」を修飾しているのかは、まだちょっと自信が持てない。
ぼくは原文にないこういうストレスを読者の方々に抱かせたくなかった。いつもだったら全角スペースを入れるところだけれど(全角スペースこそ元々ないじゃないかという話はまたどこかで)、原詩の「形」が与える印象を損ねたくはなかった。そこで、明確な文の切れ目に半角スペースを入れることにした。

明け方の黒いミルク 僕らは夕方にそれを飲む
僕らは昼に朝にそれを飲む 僕らは夜にそれを飲む
僕らは飲みに飲む
僕らは空に墓を掘る そこなら狭くない
ひとりの男が家に住む 彼は蛇らと戯れる 彼は書く
彼は日が暮れるとドイツへ手紙を書く 君の金色の髪マルガレーテ
彼はそう書く そして家を出る 星が輝く 彼は彼の犬らを口笛で呼び寄せる
彼は彼のユダヤ人らを口笛で呼び出し地面に墓を掘らせる
彼は僕らに命じる さあダンスの曲をやれ

わずかな見た目の違いでしかないけれど、これによって、余計な曖昧さに惑わされずに、詩の言葉を読むことに集中していただけるのではないかと思う。

ちなみにこの後に訳したアポリネールの「ミラボー橋」でも、同じ理由で半角スペースを入れている。

こちらはあふれる抒情につられて全角スペースにしたい欲求にも駆られたけれど、半角にすることが、原詩の実験的な革新性に寄り添うことになる気がした。

 *

こういう話は、ともすれば文学そのもの以上に面白くて、ぼくは本当に文学が好きなのだろうか、と何百回目かのもやもやを抱えたりもするけれど、けっきょく語学(言語学?)も文学も音楽もそれなりに好きで、だからこそ仕事の合間にちょっとやるくらいで続けていくのでちょうどいいんだろうな、といういつもの結論にたどり着きます。

最近ぼくの中でわりと出来のいいものが続いているので、ぜひいろいろ読んでみていただけるとうれしいです。

 *

画像はミラボー橋の写真とアポリネールの「ミラボー橋」です(CC-BY-SA-3.0)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Apollinaire_Sous_le_pont_Mirabeau.jpg

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