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#84 静かな場所で響かせてみたい願望

打てば響くような、と喩えられる鐘のような人に出会うと
「ほぉーそういくのか」とか「彼は3歩先を見ていた!」とか1人で拍手喝采して感心の嵐が吹き荒れる。
一方で自分はどうかというと、打ってから数日音が鳴らないことがあるへっぽこだ。

テレビなんかで食レポする人をみてすごいなぁと思う。
視覚では伝わらない味や感触、香りを瞬時に言葉に変換する。
たまに「え、今齧ったとこじゃない」てなタイミングで喋り始める人もいるけど、わたしなら「まだ口に入れたとこ… 」とモゴモゴなりそう。美味しいんだけど。黙ってるけど美味しくないんじゃないことを伝えるために言う「美味しいです」は鐘を鳴らしたうちには入らない。


コンサートも美術館も、本当は1人で見たい。
(でも息子にも見てもらいたいし彼が時々こぼす感想のファンなのだ)
誰かと一緒に行っても入り口で「じゃ」と別れられたらいいのに、と思うけど座席は隣り合わせなのだから仕方ない。仕方ないから、消化不良なあれこれを胸にしまいきれずに不恰好な形で垂れ流してしまっては「こらこら、上っ面なこと言わずに黙りなさい…」と自分で自分の口に蓋をしたくなる。


なぜだろう。

熱いものに触れてしまった時は瞬時に「あちっ!」と手を離すのに。
心でそれを感じる為には、しばらくそれに触れたまま
「今右手が熱々のポットに触れています」
「結構熱いです」
「指がヒリヒリする」
「いや、これは痛いということか」
「なるべく早くに離した方がいいレベルではないか」
と明らかにヤキモキするスピードで理解と反応が進む感じがする。
実にもどかしい。
全部の指の関節をちょっとずつ曲げて震える「んあー!」というアレ。

良きものに触れた時に、答えを持ち合わせていない問いにぶち当たる度に、
わたしは「んあー」とやっている。

そして静かな場所で、ぐっと息を詰めて耳をそばだてる。
「え?今なんて?」と自分に訊く。

それって優しく言えば慎重、簡単に言えば頭の回転が恐ろしくのろい、ということ。

感情が熟成するのに時間がかかるのかな?感情を味わっている時はそれしかできないくらいCPUの性能が悪いとか?とふわふわしていたら先日
「意図せず誰かを傷つけることがないように言葉は選ぶようにしている」
とある人が言ったのを聞いて「あれ」と思った。

その人は、自分の発した言葉が相手の心に着地する時の感触を想像して言葉を発していた。つまり相手の言語で考えて、相手の文化を慮っている。自分の感情を相手の言葉で考える余裕がある!一方でわたしは、言葉を発する前に、如何に正確な地点に到達させるかばかり考えている。だから生々しい自分の言葉を相手に伝えるために変換しようと苦戦している。この違いはかなり大きいに違いない。でもなんでこうなったんだろう。

・・・


「相手の気持ちを考えなさい」と育てられてきた。
日本という特にハイコンテクストな文化の中をうまく泳げるのは、相手の期待する反応を瞬時に打ち返せる人。つまりここでも答え合わせを無意識にやっている。答えの方が声が大きいから、自分の声はいつの間にか小さくなりすぎていて
周りが静かじゃないと聞き取れないのかな。だからわたしはいつも息を潜めて「今なんて?」とやっているのかも


お寺に吊るされたばかりで「誰か来ないかな。ここで打たれたら、わたしってどんな音が出るんだろう」とワクワク待っている鐘を想像した。(かわいい)

鐘は誰かに打って貰ってその音が響くから、対話を通じて初めて自分の音を聞けることもあるんだろうな。
できれば広々した静かな場所で、思いがけず自分から飛び出した音も聞いてみたいと思うのは呑気すぎるかな。いつもそんな状況なわけないけど、誰かに投げかけられた問いに全身を震わせて くわんくわん と響く自分の音に耳を澄ませられたらどんなにいいだろうーーと
ついまた妄想の世界に行ってしまう!


「何かありますか?」と感想を求められた時、時差のある国の中継みたいになりがちなわたしの課題。深く思考の階段を降りすぎる前に相手に伝わる言語で思考する、自分の世界に戻って感覚を確かめる、と行ったり来たりする訓練をすること。

結局ふらふら考えてしまった。
風に吹かれて靡く様な鐘じゃあ いい音もならないわねぇと
鐘の下に立ってる人に笑われたような気がします。

るる


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