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母から子への手紙

 子どもが幼かった時のこと、『心の手紙コンテスト』というものに応募したことがあった。
 郵便局でたまたまパンフレットを見つけたように記憶している。
 そこには、野口英世博士の母・シカさんが一所懸命に書いた葉書の写真とこんな文章が載っていた。

 母シカが英世に宛てた1通の手紙には、たどたどしい文章であったが、英世を想う母の愛であふれていた。






 

 シカさんは、農作業の傍ら45歳から産婆を営んでいたが、免許が義務付けられた際に満足な読み書きができなかったという。 
 そこで、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教わり、苦労の末に国家資格に合格したそうだ。 

 そのシカさんが一所懸命書いた手紙。
 1900年に単身渡米していた野口英世博士は、母からの手紙に涙し、その手紙を何時も胸にいだき故郷に思いを馳せながら研究に没頭していたという。

 
 
 そこまでを郵便局の待ち時間で読み、私も子どもへの気持ちを残してみよう、と書いてみたのだった。
 そして第11回、第12回と佳作をいただくことができ、この作品集と記念品をいただいた。
 
 表彰式に参加出来る機会をいただいたが、2回とも行けなかった。
 今も後悔している。
 どの作品も愛に溢れているので、書いたみなさんと会ってみたかった。
 
 そして、小説家で僧侶の玄侑宗久先生にお会いできたかも知れなかった。
 芥川賞を受賞された『中陰の花』という作品は、当時、入院していた母に付き添いながら読んだ。
 たまたま実家は臨済宗妙心寺派であり、本に導かれたのかしら・・・と思いながら、一気に読んだ。

 できたら、私の拙い文章を、それぞれ973編、941編というたくさんの応募作品の中から佳作に選んでくださった猪苗代のおかあさんたちにお礼を言いたかった。


 いつ息子に渡すかはわからない。
 でも、母がこんな文章を書いていたことを知ったら、彼はどうするかしら?
と思うと、ちょっと面白い。
 そんなわけで、仕舞いっぱなしにしている。
 
 

 第11回には、私の母が危篤になったときにお腹にいた息子の話を書いた。
 息子は母が危篤になった時、私のお腹を初めて蹴ったのだった。

 『この世とあの世の中間=中陰』

 『中陰の花』の中陰。
 その言葉が思い浮かんだ。

 出生を「生有」、出生から亡くなるまでを「本有」、亡くなることを「死有」と呼ぶことから、亡くなったあと次の生を受けるまでのことを「中有」というらしい。
 中陰とは、人が死後、極楽浄土へ行って次に生を受けるまでの49日のこと期間のことをさすのだそうだ。

 看病と育児の両立に不安を感じていた私のために母は逝ったのではないか、と悲しむ私にある人が言ってくれた。
 「悲しまないで。
 息子さんが生きることは、おかあさんも生きるということです。」
 という言葉が、すっと私の心に入った経験を書いた。
 

 第12回は、息子が大雨の中買い物に行って、私のためにご飯を作ってくれた話。
 息子は、今も黙って何かをする男である。
 小学校の先生に「自分の背中で語る」という人物評をいただいた渋い人間である。
 しかし、硬い人間ではなくて、むしろ心はやわらかい。

 子どもに教わって親にしてもらうのだな、とずっと感じている。
 産んだ私より子どもの方が、精神性が高い気がしている。
 親からはわからない子どもの気持ちがあるとして、子どもからは親の気持ちが丸見えになっているような・・・。
 お腹にいる間中、臍の緒で繋がっていたのだから、それはそうか。
 私のことを助けるために来てくれたの?と思うこともある。
 
 「子どもたちに教えられたこと」記録は、私の頭の中でこれからも更新されていくのだろう。


 




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