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「肉眼の思想」

大岡信の『肉眼の思想』が出てきたので、ページをめくってみた。

最初に読んだのは、高校3年生の時だったと思う。
確か、芸術の評論に関する小論文が美大の受験にあったので、誰かに勧められたのだ。

古すぎて、もう、紙が茶色くなっているこの本を、パラパラとめくってみる。

現代芸術は今大きな過渡期の瀬を渡っている。その瀬の荒い流れ、大小さまざまな波にもまれつつ、自分の位置を確かめ、全体の展望を得ようと努力している一人の抒情詩人の願望と思索と批評の書。


「小説と詩はいかに異なるか」
という文章がある。

改めて読んでみて、読んだはずの文章を忘れていたどころか、日々にかまけて、そのようなことを考えてみようという時間も持てなかったことに愕然とする。

人は詩を読むことによって、いわば詩から解放される。小説を読むとき、人は益々深く小説の中にまきこまれる。

しかし、いうまでもなく、小説も詩も、言葉という、人間の想像力の結晶であり、かつ想像的なるものの不断の源泉であるものを、その共通の存在理由としているのであれば、小説と詩をこのように分けて考える考え方は、それだけでは片手落ちであろう。

と書きながら、違いを端的に示す例を上げている。

つまり、詩においては、「詩とは何か」についての詩、すなわち、その詩人自身の持論であるというものが書かれうるし、かつ、ある詩人の最良の詩が、しばしば「詩とは何か」を詩の形で論じた時でありうるのに対し、「小説とは何か」を小説の形で論じた小説というものは、小説論という純粋形式においては存在し得ないということである。なるほど、小説家は、「自分にとって、小説とは何か」ということについて頭脳をしぼっているだろう。だが、彼がいったん小説を書きはじめるときには、彼は、いつ、誰が、どこで、何を、どのように為したか、という時間的・空間的限定をもった小説的世界の中へ否応なしに入ってゆかねばならない。彼自身、まっさきに小説の内側にまきこまれ、時間・空間の座標軸にはさまれつつ動いてゆく時間的存在に化すのである。そのようにして、彼は読者を彼のつくりあげる創造的な社会の中へと招き入れる。読者はすでに、最初から、小説家の敷いたレールの上を、小説家の支持する方向に向かって歩み出すほかない。

小説家も、小説の読者も、そのような形で、歴史をみずから織りなして行くのだという。
そして、小説がそのようなものである限り、

「さわやかな開放感」

を与えるような小説は、小説としてはたぶん二流三流なのだという。
そのわけとは、人間は解放を求めて歴史の中で闘い続けるが、歴史そのものは人を開放するものではないからだというのだ。

うますぎると人に感じさせる作家が、つねにある種の二流性を脱しきれないのも、たぶん、そのことと関係がある、という。

うますぎる、というのは狙いすぎる、という事なのか。
上手く書こう、または描こうとしたものは、魅力にかけることがあるのは確かな気がする。
魂を込めるというのは、そういうことではないと思うから。

そして、夏目漱石が大正五年、死の直前に芥川、久米の二人の弟子に送った手紙を引用している。

「牛になることはどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老猾なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。(中略)根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、花火の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵へてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」

この手紙が、芥川、久米という二人の、とりわけ「文士」的な青年作家にあてられていた。

そして、その後の文章で、自らが詩と散文に関して通念として持っているある種の判断基準が、大江健三郎の「万延元年のフットボール」によって、たちまち曖昧な物になった、という文章に続いていくのだ。

大江氏の資質、すなわち、感覚的なものを想像的にとらえ、創造的なものを感覚的にとらえるめざましい資質は、常識的に言えば、散文家たちの世界よりは詩人たちの世界に近いのである。




私はこの本を、少なくとも3回以上は読んでいる。
美術に関連する部分を重点的に読んだせいなのか、この部分はさらっと流してしまっていたようだ。
よく理解していなかったどころか、読んだという記憶すら、ない。
深い洞察を読み流してしまっていたのは、もったいないことだった。
今、再び、読み直せてよかったと思う。


追記
ちょっと面白いことを思った。
スキの数やフォローの数が気になる、という記事をたまに見かけるけれど、
もしかしたら、規模は違っても、こういうことなのかも知れない。
もちろん、記事の目的にも寄るのだけれど・・・。
相手をこしらえる必要はなくて、
気にしないで、その人らしく書くのが素敵なんじゃないかしら?なんて。
きっと、みていてくれる読者の方がいるはず。

牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。



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