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来し方を語りたく ②


いろいろな病院に暮らしていた
小さい子供の記憶を、いくつか。
(長文になります)

*****

🌟
入院していたときの
忘れられない思い出がある。

それは一番古い、入院時の記憶。

病院の名前はわからないけど
母もずっと一緒に「入院」していたことを憶えている。

その病室はちょっと特殊で、
がらんとした広い部屋の、窓がある一辺の壁にだけ
子供の入院患者用のベッドが並び、
それぞれが細長い個室に分けられていた。

窓に足を向けて寝るように患者のベッドが配置され
そのベッドの側面に沿って
下半分は白い壁、上半分はガラス張りだから
お隣り同士、お互いの様子は丸見え。

個室の中には
ベッドの向かい側の壁… というよりは、
あまりにも狭いので
殆どベッドに平行して並べるように
細長く、背もたれのない
合皮のような、光沢のあるつるっとした生地張りのベンチが置かれていて、
それが付添人のベッドも兼ねていたけど
本当にただのベンチで、
あれではとても横になんかなれなかったと思う。

母も祖母も、どうやって寝ていたのだろう。
実際のところ、座ったままウトウトするしかなかったのでは…
と気の毒に思う。

この病室に入院していた時、
私はおそらく2歳くらい。

隣りの病室に、可愛らしい赤ちゃんの患者さんがいて、
私は自分のベッドからよく
ガラス越しの向こう側のベッドにいるその赤ちゃんを
「かわいい…♡」と思いながら見ていた。

その赤ちゃんも
私の顔を興味深げに、じいっと見つめてくれていた。

付き添いのお母さんが、スプーンを口元に運んで食事をさせている時も
その子はずっと私の方に顔を向けたまま、
物言いたげに両手や、表情をふわふわ動かして
何かをお話ししてくれているみたいな時もあったり、

母と、その子のお母さんも
よくガラス越しに
お互い軽く会釈しながら、目礼したりしていた。

ある日の午後
検査だったのか、それとも売店か散歩に行っていたのかは憶えてないけど
私と母が病室に戻って来ると
激しく泣き叫ぶ女の人の声が聞こえた。

「めぐみちゃあぁーん… 死んじゃったああ…」

お隣りの、あの可愛い赤ちゃんのお母さんが病室の中で
大きな声で、
独りで泣いていた。

その言葉だけを
繰り返し、繰り返し…

私も母も、しばらくびっくりして動けずにいて
それから
私を個室に入れると
母が隣りの病室に入って行って、
泣き叫ぶそのお母さんの手をとり、肩を抱きながら、
しばらく何か話しかけていた。

そのお母さんの悲しみは収まらなかった。
今も、そのなげきの慟哭どうこくの声ははっきりと
耳の奥に残って
遠い記憶の中で響いている。

隣りの病室から戻って来た母は
何も言わず
窓を背にして立ったまま、こぶしを口に当てて
じっと押し黙っていた。

母も涙を流していた。

「ママ、どうして泣いてるの」
私はそう聞いたけど
本当はどうして泣いているのかなんてわかってた。
お隣りのお母さんが悲しんでいるからだ って。

その時のわたしは
死が何かなど解っていなかった。
でも
あの可愛い赤ちゃんは、もういつも居たベッドにはいなくて
お母さんは大声をあげて泣きながら、悲しんでいた。

だから「死んじゃった」とはこういうことなんだ
といった程度の理解は、したのかもしれない。

もうここに居ない。
もしかしたら、もう戻って来ない。
もうずっと、このまま会えない…?

「ママ、どうして泣いてるの」
という、的はずれの私の言葉は

まだ人生経験があまりにも少なくて
語彙が無さすぎて、
言葉を知らなくて、

こんな時、一体なんと言ったらいいのか
もっと適切な言葉フレーズ
知らなかったからだと思う。

母の涙を止めるために
私はどんな言葉を言えばいいのかわからなくて

嘆き悲しむめぐみちゃんのお母さんの
その悲しみの大きさが
計り知れなくて

私も泣きたい気持ちになりながら
ただ母を見上げて
めぐみちゃあーん… と病室じゅうに響きわたる大きな声を聞きながら
母の服を引っ張るように必死に掴んで、繰り返していた。
ママ、ドウシテ泣イテルノ…

泣き止んで欲しいのに、
口から出てくるフレーズが
「泣かないで」じゃなかったのは、

子供心にも
きっと泣くしかない状況なのだから
「泣かないで」という言葉は言えない…
とでも、感じていたのだろうか…

可愛い赤ちゃんのめぐみちゃんが
一生懸命、わたしをじいっと見つめてくれていたことと
あの時の、めぐみちゃんのお母さんの嘆きが
忘れられない。

*****

🌟
たぶんそれは
初めて独りで入院する日だったのではと思う。

家族の付き添い無しに入院できる年齢は
病院によって違うのだろうか。

その日、その場所に
私は母と一緒に行き

母は看護婦さんにご挨拶し、
私にも挨拶させると、
しばらく大人同士で何か話したあと
家に帰って行ってしまった。

ひとり病室に置いて行かれた私は
確証はないけど、その時たぶん3歳くらい。

お天気のいい日で、
暗い病室の向こうに、広くて明るいテラスが続いていた。

「我慢強いのがお前の取り柄」
と、
それだけは母も認めてくれていたように
たった独りで病院に置いて行かれても、
私は騒ぎも、泣きもしなかった。

寝間着に着替えて
その日から「わたしのベッド」になったベッドの上に座り
明るい光に満ちたテラスの風景を
しばらくぼうっと眺めていた。

何も考えてはいなかった。
何も感じてなかった。

私はただ、そこに居た。

やがて食事がベッドの机の上に配られた。
おでんの染み染みのお大根のような
ベージュの色合いのものばかりが詰まった、
たぶん野菜の煮物だった。

今ならすぐに「美味しそう」と思うだろう。
でもその時の私には
その色が、『とても悲しい色』に見えた。

くすんだ色彩の、悲しい色をした食べ物。
もしこれを食べたら、
私の中に、この悲しみが入って来る…

そのときの私は、真面目にそう感じていた。

まだ料理の味も名前も、区別などついてはいなかった頃。
食べ物の好き嫌いではなく
受けた印象で、
この色の悲しみを自分の中に入れたくなくて、
私はその食べ物を身体に入れることを拒んだ。

あるいはもしかしたら
自分では、悲しんでいたつもりではなかったけど
本当はその日
ものすごく悲しくて、不安で、
そのせいで食べられなかったのかも知れない。

もしあれがもう少し色彩の明るい、
たとえば
やわらかい乳白色に、にんじんのオレンジ色、
ブロッコリやグリーンピースの緑、
とうもろこしのやさしい黄色などが浮かぶ
クリームシチューだったら、
あの時の私は、食べることが出来たのだろうか…

もし
入院中の子供がものを食べようとしない時は
単に好き嫌いをしている訳ではないのかもしれない。

どうして食べないの?
と落ち着いて話を聞いてみてあげて欲しい。

もしかしたらその子なりの、何か真剣な理由があって
大人達がそれを出来る範囲で解決してあげれば、
すんなり食べられるようになるのかも知れないから。

私自身は、母が去った直後のその食事のことしか憶えていないけど
母の話では
その日以降もわたしは食事に全く手をつけず、
困った看護婦さんから連絡が来て
母はしばらく
お弁当持参で面会に来てくれていたそうだ。
テラスで本を読み聞かせながら
無理やり口にシューマイなどをねじ込んで😓くれていたらしい。

今でもシューマイ好きではありますが。

でもやがて
その病室の環境に慣れると、
私はちゃんと自分で食事を摂るようになったそうです。

*****

🌟
一度だけ
二人部屋の病室だったことがある。

これもおそらく、3歳の時の入院だと思う。

その病室は一階にあって、
患者以外の子供の入室は禁じられていた。

ある日、面会時間に来てくれた母が
「窓の外を見てごらん」と言うので、
その病室の大きな窓のところまで行って、見てみると
父に抱っこされた、まだ小さな弟が来てくれていた。
懐かしくて、嬉しくなって
「ひさしぶり~」という手の振り方で
父と弟に、ひたすら笑顔で手を振ったことを憶えている。

同室の女の子は私より何歳か年上で、
とても仲良くしてくれていた。

ある日の昼食に、初めて見る食べ物があったので
「コレ何かなぁ?」
と、それを指差しながらその子に聞くと
「納豆だよ!すごく美味しいんだよ!」
と、元気な明るい声で答えてくれた。

「すごく美味しいんだよ!」
そう聞いちゃったらもう、未知の食べ物はすでに
美味しい食べ物😋

こうやるんだよ、と食べ方を教えてくれたので
一生懸命その通りに真似をして、
その日、わたしは人生で初めての納豆を食べた。

「ほんとだ、美味しいね!」
実際、本当に美味しく感じた。

その日以来、私が納豆を大好きになったのは
その子のおかげだと感謝してます♡
(*´꒳`*)

この病棟には週に一度、
大学生(←たぶん)のお兄さんお姉さんグループが
夕食後に遊びに来てくれていて、

入院している子供たちと一緒に
いろんなゲームなどをして楽しく遊んでくれるから、
私も楽しみにして、毎回参加していた。
(参加不参加は自分で決められた)

その夜は
患者の子も、お兄さんお姉さんも、みんなで車座になって座り
一人だけが真ん中に座って、
大きなクマのぬいぐるみを顔に当てて目を瞑ると
周りのみんなは、歌を歌いながら後ろ手に、
小さいクマちゃんのぬいぐるみを、隣にどんどん渡していくゲームをしていた。

「歌が終わった時に、誰が ちびクマちゃん🧸を持っているか?」
を真ん中の人が当てる、というゲームだったんだけど

正解したら そのまま真ん中の役を続け
外れたら その時ちびクマちゃんを持っていた人に交代。

交代で、私が真ん中に座ると、
その夜の私はそのまま、百発百中で正解を続けた。

どうして当たるのか、自分でもわからなかった。
当てずっぽうに、この人、と誰かを適当に指差すと、
本当にその人が持っている、ってカンジ。

「ほんとはこっそり見てるんじゃないの?」
と言う子がいたから、
私は大きなクマちゃんをぎゅっと抱っこして顔に当て、
力いっぱい目を瞑っていた。

それでもまた正解して、
「すごーい!」「なんでー?」
とみんなから口々に言われるのが照れ臭くて、
なんで当たるのか自分でも不思議すぎて、
クマちゃんに抱きつきながらクスクスと笑ってしまっていると、
一人のお兄さんが
「この笑いがミソなんだよなー?」
と言うのが可笑しくて、また笑ってしまった。

この時の入院では、楽しい思い出が多い。

*****

🌟
私が4歳で
神奈川県のこども医療センターに入院して受けた
大きな手術は
執刀して下さったお医者さま達もかなり消耗するほど
大変な手術だったと聞く。

手術の後、いちど目が覚めて
家族の皆が枕元に揃って、私を見下ろしている光景の記憶がある。

身体が自由に動かせないほどたくさんの、
点滴や、いろんなくだが繋がれていたことも
憶えている。

まぶたも、意識も、
とにかく身体全体が重苦しくて
そのあともう一度、私は眠りに落ちたらしい。

次に目が覚めた時は
すっかり夜になっていて、

病室全体がもう真っ暗な闇の中で、
ガラス越しに見える廊下の向こうに
お仕事をしている二人の看護婦さんがいる小部屋にだけ
明かりが点いていた。

私はそのとき
悪夢で目を覚ました。

その日の早朝に手術を受けたことが
関係していたのかはわからない。

でもそれまでは
病院で、悪夢で目を覚ましたことはなかったと思う。

家ではしょっちゅう見ていたけど。

(まだよく憶えてるんだけど、
人の指とか、そのモノ自体はありふれたものなのに

それがあり得ないほど巨大化していて、
自分は蟻よりも小さな生き物になってて
その巨大なモノの前で怯えているような夢をよく見てた。

『千と千尋』の湯婆婆が更にもっと巨大化して、リアルにそこに居るような😅 
でも言葉のやりとりなどのコミュニケーションは、全く無いの。
巨大な物体が、ただ目の前にそびえているだけ。)

目が覚めるほど怖かったはずの
その夜に見ていた悪夢の内容がどんなものだったのか
それはもう記憶にはない。

でも
その時の私はとにかく、たまらなく怖くて
唯一自由に動かせる片手を頭上に伸ばし、
ナースコールを押した。

看護婦さんはすぐに来てくれた。

「どうしたの?」
「こわい夢をみたの」「眠るまでそばにいてください」

看護婦さんは
大丈夫よ、とやさしい声で元気づけてくださり
お仕事があるから、そばにはいられないの、と事情を説明してくれた。
眠りなさい、と言い残し
看護婦さんは戻って行った。

私は眠ろうと目を閉じた。
でもすぐに、背筋が震えるような怖さをまた感じて
半泣きで
もう一度、ナースコールを押した。

「大丈夫?」
看護婦さんはまたすぐに来てくれて
私は「お願い、すこしの間だけでいいから」
ともう一度頼んだけれど、
本当にごめんね、看護婦さんはお仕事があるから、ね…
と再び背を向け、廊下の向こうへと戻って行ってしまった。

私は怖さの中にひとり取り残されて
このまま眠ることはできないに違いない と
悲しさと、焦りまで加わってきた。

しかたないよ…
しかたない…
と思っているうち、
ぼんやりと
「おうちに帰ろう」と思いついた。

おばあちゃんなら、眠るまでそばにいてくれる。
うちに帰って、おばあちゃんに頼もう。


私はこの時の気持ちも、身体の感覚も、
はっきりと憶えている。

家に帰るには、先ずこの点滴やいろんなくだ
引っこ抜かないと
と、さっそく作業に入った。

点滴の管は、力を込めれば、
わりと簡単に外すことが出来た。
点滴は一つじゃなく、いくつかあって
外す瞬間は少し強い痛みがあったけど、
両手が自由になったので、すこし解放感を感じた。

お腹に刺さっている管が大変だった。
これに手間取ったことを、嫌というほど憶えてる。
なかなか抜けずに苦労したから。

何度も何度も身体をよじって、
少しずつ、
文字通り「引っこ抜いた」

たぶんそれは、身体の奥深くまで差し込まれていたのだと思う。
やっと最後まで抜けた瞬間、ふわんと目が回るような
気が遠くなる感覚があって、
あ、と自分に気絶をさせないよう
グッと気を取り直した記憶がある。

すでに疲れを感じながら
上半身は寝たまま
ゆっくり、ずるりと両脚を滑らせてベッドを降り
足裏に冷たい床の固さを感じながら
病室を出た廊下の先にある出入り口のドアを目指して、
私は、そろそろと歩き出した。

自分の手からポトポトと滴り落ちる血が
廊下を点々と汚すのを
どうしよう と薄ぼんやり感じながら
先を急いだ(つもり)。

頭ははっきりしてなくて
あまり気分も良くなかった。
乗り物酔いしたみたいな感覚で歩いていた。
ゆっくりと。
(後から聞いた話によると、「ふらふらと」。
幽霊みたいに見えてたかも💧)

ちょっとずつ歩いて、ナースステーションに背を向けかけたとき
視界の隅で
看護婦さんが驚いたように立ち上がる気配をとらえた。

「いけない、見つかった…」
と残念に思う気持ちと、悔しい気持ちを感じて…

あとはもう、記憶がない。

今、客観的にその状況を思い浮かべると
その時の自分に
「頼むからやめてーーー!😱」
と青くなって叫んでしまう…

その後、両親が病院から受けた報告では
私は気を失って、廊下に倒れたらしい。

「大変です!」
と、すぐに執刀医で主治医のT先生に看護婦さんから連絡が行き、
真夜中にも関わらず、先生は「すっ飛んで」病室に駆けつけてくださった。

ベッドに戻された私は
また点滴と、他のくだも元通りにつながれ
(苦労して取ったのに~  (ー“ー;)オイ…)

お医者さまや看護婦さんたちは皆、
思いもよらない、手術したばかりの(はずの) 患者の行動に肝を冷やしながら
緊急の医療処置だけでなく、
血痕の掃除も含めた後処理に追われ
(ごめんなさーい💦)

「こんなことをしたお子さんは初めてです…」
と先生方の寿命をかなり縮めてしまったようで

その病院でも、うちでも
語り草になるような
私の入院生活のハイライトトンデモエピソードを作ってしまった。


当事者として憶えている限りでは
別に看護婦さんの態度はひどいものではなかった。

ちゃんと分かるように、丁寧に
そばにいられない理由を説明してくれた。

わたし自身が「おうちに帰ろう」と
そのとき決心してしまったから、
「お家に帰りたい」の一念で
私はひたすら
目標達成モードに入ってしまい、
全力で目標達成しようとしただけのことだと思う。


感情的には完璧に落ち着いていた。
4歳の子供にありそうな
「ママ~😢」という気持ちはなく、
ただ粛々と、自分で決めた任務遂行に邁進まいしんしていた…
というカンジ。


その後、先生方や看護婦さんたちの素早い処置のおかげもあり
私の身体にも深刻な問題は起きず
術後の容体も順調に回復していき、

やがて私は健康になって、
元気に退院できました。🎊㊗️🎊


あの時、こども医療センターで
ご心配とご迷惑をかけてしまった
すべてのみなさま

本当に、申し訳ございません。

そして
その節は、大変お世話になりました
どうも有難うございました❣️
( & 海よりも深く反省しています…)



長い記事ををここまで読んでくださって
どうもありがとうございました😊💕


🌟ご協力のお願い🌟
このシリーズの記事のコメント欄では
私はホスト役をせず、読者の一人に徹したいと思います。

必要と思われた場合のみコメントを書きますが、
基本的に
「コメントどうもありがとうございます」の気持ちを込めて、
♡マークを押すだけにとどめます。

その点、どうぞ予めご了承ください。

この内容の文章を綴るだけで、精神的に精一杯で、
一つ一つのコメントに、きちんとご対応できる自信がないからです。

でもこの記事をきっかけとして
みなさんが感じた事、思い出した事、
同じような経験、
今の感情や、お考えなどが
心の奥から出て来たら
もし良かったらどうぞご自由に、ご遠慮なく書いて行ってください。

みなさんがそれを書いて下さって、
それを読む人がいて、

経験や想いが
「自分だけじゃなかったんだ」と思えたり
知らずにいた、その時の相手の考えや想いに気づいて
「そうだったのか…」と思えることは

人知れず苦しんでいる〈誰か〉にとって、
救いになると思いますから…


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡