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【掌編小説】別れ話

 生ビールの中ジョッキには2/3くらいビールが残っていたが、初めにたっぷりとあった白い泡はすっかりなくなり、ビールの水面にうっすらと名残があるだけだ。
「ねぇ、黙ってないで、何か言ってくれない?」向かいの席の女が言う。ビールから彼女に視線を移すと、顔にかかる緩くパーマをかけた前髪の奥で眉を寄せて俯きがちにこちらを見ている。
「だから、どうなのか言ってくれないかな?」女の声が苛立ちを隠さなくなってきた。
 男の耳に居酒屋の音が戻って来る。周りの人の話す声、笑い声、注文のやり取り、食器の当たる音。彼女に「他の男の人と結婚するから別れてほしい」と言われてから、しばらく聞こえていなかった。
 「勝手だとは思うけど最後に返事とかもらえないのかな」今度は責めるわけでもなく独り言のように最後は消え入るような言い方をする。
「あの、」と男が言いかけると、彼女はそれを待っていたとばかりに真っ直ぐな視線を向けてくる。この整った顔で見つめられるのが良かったんだよな、なんて付き合いだした頃に思ってたことが頭に浮かぶ。彼女は男が話し始めるのを待とうとして、自分は余計なことは言わずに飲み込んで、じっと見つめている。
 「あの、まぁ、仕方ないよね。その、かなり驚いたんだけどさ」彼女が男の顔から目を逸らす。責めるつもりはなかったのだが。
「その、変なこと聞くけど、俺とその人の二人と同時に付き合ってたんだよね?プロポーズしてくれたというその人の他にはお付き合いしている人はいないのかな」女は質問が意外だったのか、少し驚いたような顔で男を見ると、小刻みに首を振る。
 「そ、そうだよね。いや変なこと言ってごめん。それで、二人と付き合っていて俺ではない方の人に正式にプロポーズされて、じっくり考えて、そういう結論を出したんだよね」
 「うん、そう」と呟いて視線をテーブルの上の店員が置いたままの料理に落とす。それから意を決したように顔を上げて、
 「すごく勝手なことを言っていると分かっているけど、彼のプロポーズをきちんと受けて結婚して、彼と偽りなく向き合って生きていきたいと思ってる」と男の顔をしっかりと見て言う。
 男は壁のポスターに眼をやりながら、
 「残念だね。俺としては真剣に付き合ってたけど、二股を掛けられてたわけだね。まぁ、見抜けなかったんだからなぁ」と返す。
 俯いて前髪で顔を隠すようにする彼女の眼に涙が浮かぶ。もはや仕方ないのだ、別れたいという女を責めても戻って来るものでもないだろう。むしろ男としてみっともないことだ。
 「ごめん、もう分かった。急に音信不通になったりとか、メールとかでじゃなくて、きちんと別れ話してくれたってことは、俺のこともきちんと考えてくれてたからだと思うから、もういいよ」
 「本当にごめんなさい」
 「いいよ、わかった。その人と幸せになってね。もう二股はダメだよ」そうおどけて言うと彼女もようやく笑顔を見せて、
 「ありがとう」と笑った。笑顔もやはりかわいいと思った。
 男は残っていたビールを飲み、手をつけていなかったポテトフライを口に運ぶ。彼女はコーラのグラスを手に持っただけでストローに口はつけず、しばらく黙って男を見ていた。そして男がビールを飲みきるのを見て、彼女は明るく切り出した。
 「じゃあ、そろそろ」彼女が笑顔を真っ直ぐに自分に向けて言うのを聞いて、男はもう自分と一緒にいる理由がないのだなと実感する。
 「そうだね。あ、俺もう一杯だけ飲むから先にどうぞ。ここでお別れだね」そう言って立ち上がり彼女を促す。彼女も「じゃあ」と立ち上がると、伝票に気がついて「お金」と呟いたが、男は「それはいいよ、もう会うことはないし、最後に結婚祝いさせてよ。そんな大したものでもないけど」と言った。彼女は振った男にご馳走になるのはどうかと思ったのか、「でも」と財布を出そうとしたが男はそれを押し留め「いいから」と入り口へ向かうように促した。彼女と並んで歩くとき、自分の肩のあたりに彼女の顔があったけど、この位置で見るのも、そもそももう会うこともないのだなと思った。
 2、3度お辞儀をして彼女は店を出て行った。振られた男はウイスキーをロックで注文すると、テーブルから離れかけた店員を呼び止めて「そのウイスキーで終わりにするんでお会計もお願いします」と声をかけた。
 少しすると店員がウイスキーグラスとウィスキーが追加された伝票を持って来た。「お会計は7千円です」財布からクレジットカードを取り出して渡すと店員はレジの方へ歩いて行った。
 男は店員の後姿を見るともなく眺めながらウィスキーを一口含んでグラスを置くと、ゆっくり財布の小銭入れを開いて指輪を取り出した。そしてそれをいつも彼女とのデートの後にするのと同じように自分の左手の薬指にはめると「そうか、じゃあ俺も帰るべきところへ帰るかな」と呟いた。

(了)

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