見出し画像

言葉の裏側|ショートショート

 妻が唐突に、首を傾げて囁いた。
「ねえ、あたしと結婚して良かった?」
 妻の目は丸く澄んで純粋だった。その目を前に誰が否定の言葉を放てるだろう。
「もちろん、良かった」
 間髪入れず答えた僕に、妻は莞爾と笑う。これは誘導尋問だ。妻が安心したいがための。
 けれど安心を与えたはずの僕の心には、もやっとしたものができた。妻の言葉によって、そうでない可能性が目の前に浮上したからである。もし彼女と結婚しなかったら、別の人と結婚していたら、その方が僕は良かったのではないか。
 浮気したいと思ったことはない。別の女性に目移りしたことも――今のところ――ない。けれどそれを言葉にしたことで、なんだか逆の気持ちになるのはなぜなんだろう。

 妻はその問答で満足したのか、普段通りの様子に戻って小説なんて読んでいる。
 僕だけが、発した言葉の裏側に囚われている。

「ああ、あなた」
 妻が呼びかける。僕は笑顔を作って言葉を促す。
「あたし、妊娠したみたい」

 ああ、なぜ今。
 先にそれを言ってくれれば、僕はなにも考えずにいられたのに。

「すごい!」
「嬉しい?」
「もちろん! とても嬉しい!」

 言葉の裏側、心の裏側。いつだってそこは、覗き込んではいけない深淵だ。




【完】


読んでいただきありがとうございます❁¨̮ 若輩者ですが、精一杯書いてます。 サポートいただけたら、より良いものを発信出来るよう活用させていただく所存です。