無能を描いた物語「ゲーム・オブ・スローンズ」

※最終章最終話までを視聴した感想です。ネタバレを含みます。

ゲーム・オブ・スローンズを紹介するとき「リアリティの高い」という文句が使用されることが多い。確かに、ゲースロのリアリティは素晴らしい。CGのクオリティ、衣装やセットの質感、精密に造り込まれた世界観設定などが、その「リアリティ」に一役買っているというのは誰しも納得してもらえることと思う。

だが、私はさらに付け加えたい。ゲースロのリアリティは、登場キャラクターの多くが「無能」であることにも支えられている、と。

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このドラマには、どこにも圧倒的な「英雄」が存在しない。 避けられたはずの諍いに自ら進んで突っ込み、手ひどい傷を負うエピソードの多いこと多いこと。その発端の多くは、名誉なり権力なり金なり愛なりにしがみついている、愚かしい人間たちだ。言い方が荒っぽくなってしまうが、いわゆる「無能キャラ」と言い換えてもいい。ここで指す無能とは、例えば「どう考えてもリーダーであるおまえが少しばかり八方美人になって敵方の提案を承諾すれば争いを避けられたのに、くだらない信念に執着して断ってしまうような人間」のことである。そうだよジョン・スノウ、おまえだ。まあジョン・スノウに限らずみんなその手のことをやらかしているので大丈夫、と言いたいところだが、下手を打った結果だいたい人死にが出るのでまったく大丈夫でない。

ゲースロには「この人を信じていれば絶対大丈夫」というような、圧倒的カリスマを持つキャラクターが存在しない。スターク、ラニスター、ターガリエン……メインキャラクター全員がどこかしらで「無能っぷり」を発揮した。

私は彼らを狭い視野、頑なな思考の持ち主だと感じるが、それはあくまで視聴者という神に等しい視座から見ているから言えることであって、もし彼らと同じ状況に陥ったとき、彼らより良い手が打てるかどうかははなはだ疑問である。彼らと同じように愚かな失敗をし、守るべきものの多くを失ってしまうだろう。

つまり、ゲースロのキャラクターたちは「人間」なのだ。

昨今のサブカル作品では、無能キャラの出番が少ない。最適解を最短経路で実行していくキャラばかりなのだ。例えば(知らない人には申し訳ないのだが)FGOバビロニアにおけるギルガメッシュ。彼はメインシナリオ登場中、一度も失態を犯さない。やることなすことすべてが的確であり、そのカリスマはプレイヤーを魅了する。そんな彼がいても、一筋縄では世界を救えないというのがFGOの面白いところなのだが、それは別の機会に話す。

なぜサブカル作品に無能が少なくなったのだろう。まず、サブカルとは娯楽である。自然、「爽快感」や「感動」を求めるのが優先される。ゾンビ映画でそこらへんの犬を助けるために仲間を危機にさらす奴のような、足を引っ張ってばかりのキャラは視聴者のイライラを掻きたてるだけ。無能キャラを削り、現実から乖離したスタイリッシュさ・爽快感を追い求めたのではないか。

それに、無能キャラはサブカルという概念が誕生する以前からありとあらゆるフィクションで描かれているので、下手に登場させると陳腐な二番煎じになってしまう。18世紀ゴシック小説「フランケンシュタイン」のフランケンシュタイン博士など最たる例だ。自分で人造人間を作っておきながら、恐ろしくなって捨て、最終的には激高した人造人間に家族を殺される……。こうして乱暴にまとめてしまえば「無能」なキャラクターなのだが「フランケンシュタイン」はその「無能」の実行に至るまでの詳細な描写が美しく、また面白い。博士も怪物も、愚かで自分勝手な人間だ。だが、その愚かしさを微に入り細に入り書き上げたところに価値があるわけだ。


ゲーム・オブ・スローンズも同じだ。制作陣が求めた面白さは、スタイリッシュな爽快感ではなく泥臭いリアリティ。無能を徹底的に描くという点で、サブカルらしからぬサブカル(日本の漫画アニメを中心とするサブカルとはまた傾向が異なるだろうが、大衆娯楽であることに違いはない)でありながら、数多の視聴者を「面白い」と思わせた制作陣に、ただひたすら脱帽である。

ゲースロを見ていると、無能でない人間などいないのだとしみじみ思う。歴史の教科書を読みながら「どいつもこいつも馬鹿だな」と幾度も冷笑していた私だが、ゲースロを視聴し終えたいま、なんとなく彼らに共感することができる。
誰も彼もに譲れない事情があり、しがみつくしかない矜持があったのだろう。たとえそれが外野からすれば愚か極まりなくても。

そう思わせてくれたGoTに感謝している。

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