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王国

               👑


私には風変わりな友人がいます。ある日、彼はこんなことを言いました。
 
「君にしたっけ、僕がカラスウリの花に捕まえられた話」
「いや」
「信じなくていいけど、これは僕の身の上に本当に起こったことなんだ」
 


 
去年の夏。ある山岳地方を旅した時のことだ。
君も知っての通り、僕は目的もなく歩く旅を好む。
その日の朝も、宿を出ると気に入りの道へと向かった。森の入り口には樫の木がある。その朝は、樫の木に白い花がいくつも懸っていた。カラスウリだ。深夜に咲く花だ、朝霧の中ではどれもが萎れていてね、花びらを内側に巻き込んでいた。その中に一輪だけが、咲いている。花びらから、白い糸がレース細工のように広がっていてね。その姿に見惚れているうちに、僕は手を伸ばし、花に触れていたんだ。
霧が濃くなっていた。
シャツの裾を、何かがそっと引いていた。僕に子供はいないけど幼い息子と霧の中を散歩したら、こんなふうかもしれない。指にも何かが巻きついて、遠慮がちに引っ張っている。白らかな糸だった。いつの間にか、カラスウリが広げる繊細なレースの中に、僕はいたんだ。そこからだと萎れた花々がよく見えた。どれも花びらを巻き込んでいるが、その閉じたところから、若い男の腕らしきものがはみ出ているんだ。どいつも血の気を失っていてね、中には力なく指を一本だけ伸ばした腕があったよ。指は糸を巻き取るようなしぐさで、虚ろな円を宙に描いていた。見れば僕の胸にも腿にも、レースの糸が巻きついているじゃないか。
樫の葉が揺れる。中から首を出したのは、なんとも巨大なイモリだった。口を開け、僕に向ってくる。ものすごく怖かったくせに、よく出来た映画を観ている気分でもあった。突然、鋭く尖った物が僕の顔の横から飛び出して、そいつの眼を刺した。イモリは樹から落ちたんだ。僕を護ってくれたのは、白らかな糸の先端だっだ。僕を縛る力はますます強まっていくのに、とても眠かった。視界の中にまで、カラスウリが糸を張り巡らしていく。まぶたの上からレースの幕が降りて来る、その途中で僕は眠ってしまったらしいよ。どうせ殺されるなら、うつくしいひとに殺されるほうが、――――なんて思いながらね。
 


 
妙に頑固なところのある友人ですから、事の真偽を詮索するなどの愚は止めました。ただ一つ、気になることがあったのです。
「今年の夏はどうするんだ?——ふたたび——」
彼はしまいまで聞かずに、否定しました。
「どこにも行かないさ。旅になんか——」
けれどその目は私を見ようとはしませんでした。濁った熱っぽさをしのばせた視線は、どこか遠い遠いあたりへと焦点を結んでいたのです。


               👑

 
         なつかしの悪夢や烏瓜が咲く      梨鱗


              




               
 
 
 




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