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【読書案内】6月のおすすめ本

個人と社会の間、中二階(M2)で立ち止まって考えるためのおすすめの本を
メザニン広報室が月に一度、紹介します。


千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(筑摩書房)

何かしら事件が起こると、私たちはそこに説明を求める。なぜ、あの人はあんなことを言ったのだろう。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
そして、その説明が正しいかどうかよりも、その説明が妥当か、すなわちストーリーの滑らかさに着目するのが、私たち人間だ。

ソーシャルメディアで断片的に情報を入手するようになった私たちは、物事の全体像を掴みづらくなっているのではないか。バラバラの「事実」を受け取って、私たちはそれを脳内で繋ぎ合わせてストーリーとして組み立てる。
「きっと大企業に優遇しているんだ」
「選挙は操作されているんじゃないか」
「あの動画にちらっと映った人が怪しい」

それどころか、私たちは自己の存在すらもストーリーで強引に説明しようとしてしまう。「私はなぜ、こんな人間なのだろう。幼少の時に体験した出来事と関係があるんじゃないか」と。
千野さんはいう。「僕たち人間は、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです」
ストーリーとして「私」を把握することを、千野さんは悪いことだと言わない。そう、人間の自然な行為なのだ。私たちはストーリーと付き合って生きていく。


小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房)

この本は、読む人によっては少しハードかもしれない。
19歳の時に性暴力を経験した筆者が、公的にはそれを隠しながら研究者として、他方ではサバイバーとして生きてきたこれまでを振り返る。筆者は、無理解な精神科医・フェミニストら「支援者」に憤りながら、哲学者ジャック・デリダの言葉に導かれて「当事者」による「加害者」への〈赦し〉の可能性を探究する。私たち読者は、ページをめくりながら小松原さんの思索の軌跡を辿っていくことになる。

「嘘でもいいから希望が欲しかった」。小松原さんは自助グループに参加するなかで、自身が「回復の物語」と呼ぶものを手に入れる。困難に直面した当事者が、他者との交流を通して回復していき、やがて社会復帰をしていく、そんな「よくあるストーリー」である。
そう、ストーリーだ。私たちは自分自身すらもストーリーで把握し、他人に説明する時にこれを用いる。
小松原さんは「よくあるストーリー」のような「語りの型」が、人には時に必要なのだという。私たちは、物事を他者に伝えたり、自分自身を理解するためのツールをそれほど多く持っていない。ストーリーを語ること、すなわち物語ることがどうしても必要なのだ。
真実ではないかもしれない。多くの事実が抜け落ちているかもしれない。前とは違う話になっているかもしれない。それでも、私たちが生き延びるために、物語は必要だ。

そして、重要な指摘もされている。支援者はときに「心の傷が癒やされるべき存在」として当事者の主体性を奪ってしまい、困難の解決方法を勝手に決めつけてしまう。
小松原さんは問う。「回復するだけがサバイバーの人生だろうか」。


浅野智彦、小林多寿子編『自己語りの社会学』(新曜社)

「自分自身を語ること」に関する日本の社会学的な研究の現在地を知ることができる一冊。レシートや映画館のチケットなど、自らの生活データを収集する「ライフログ」を手帳やノートに残す人々、病や障害といった苦悩(サファリング)と向き合うことで発揮される人の創造性、自己語りとしての自分史、薬物やお酒をやめるために機能する自己の物語……。
人とストーリー、そして社会とストーリーの関係に興味を持った人にオススメしたい。社会学の論文集ではあるが、学部生レベルでも読める易しさになっている。

自己語りと聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、この記事を公開しているプラットフォームであるnoteだ。インターネット登場から、ひとはブログやソーシャルメディアを通じて、自己に関する語りや日記を不特定多数に向けて公開するようになった。
インターネット空間は、自己語りで満ちている。そして昨今、企業すらも公式アカウントを開設して自らの存在意義やミッションを語るようになった。日本の首相も、就任直後に自らの思いを伝える本を出版している。

真実はなく、物語に囲まれた情報空間を私たちは生きている。それでも生きる上で私たちは自らを物語り、そして他者の物語に触れて理解や共感を示していく。
物語に対して自覚的に生きていくことが、〈ポスト真実〉の時代の新しい生き方なのかもしれない。

執筆:メザニン広報室