「100年なくならずに生き残ったもの」にふれること。

「松尾さんにとって良いものってなんですか?」と聞かれた時、僕は

「100年なくならずに生き残ったもの、もしくはこれから100年生き残るであろうもの」

と答えることにしている。

これまでにいろんなものに趣味として、時に仕事として見てきた中で、自分にとっての「良い」の基準はやっぱりそこにある。

どれだけ今もてはやされているものでも、1年後には忘れ去られてしまうようなことはたくさんある。それは音楽活動をしていた時に痛感した。

毎年数え切れないほどのミュージシャンがデビューしてはその数だけ消えていく。そして残念なことに、多くの人は彼らが消えてしまったことに気づくことすらほとんどない。

そして、それはどの世界でも同じだと思う。

逆に、100年なくならずに生き残ってきたものは僕たちの世代も、その子どもたちの世代も古典として次の100年を生き延びていく。

そのためには「時間で色褪せてしまうことのない普遍的な魅力」がかならず必要になる。僕は、そのものに普遍性が見出せるかどうかに「良い」の基準を置いているように思う。

以前、映画監督の園子温さんのTwitterにこういうつぶやきがあった。

売れたいと思ってる人は芝居力。芝居だけしてもダメ映画見ても舞台だけ見てもダメ。最近の本じゃダメ。100年は無事に消えずに生き残った作品を読む。東野圭吾10冊読むよりドストエフスキーの1冊。音楽も邦楽の流行モノじゃ無駄。絶対的価値を知るためにいつかこの世から消えるものは生活から排除する。

 

この言葉にはほとんど同意だけど、僕としてはドストエフスキーを読むと同時に最近の本も読んでほしいと思う。

100年生き残ったものにふれることはもちろん大切。でもそれは「これから100年生き残るであろうもの」を知ること、生み出すことにつながっていくんだと思う。

生き残ったものはいったい何が魅力的だったのか、どういうところが普遍的だったのか。そういうところを見比べながら自分の中で「良い」の基準をつくっていく。

そうして、その基準が当てはまる、自分にとって「これから100年残っていくと思うもの」を見つけたり、応援したり、あるいは自分の手でそれを生み出してみること。

過去の名作を知ることも大切だけど、それらは全て未来に向かうものであってほしい。

これから100年残っていくものを生み出すのって、すごくわくわくしませんか?

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