せまい世界の片隅に。


世界はとても広い。

そりゃあそうなんですが、僕たちはそんなことも忘れがちである。

あるひとつのテーマに対して、自分と・そのまわりの人たちの意見があったとする。そして、みんなが大差ない意見を持っていたとき、僕たちはそれを「みんなの意見」として信じてしまう。

リーズナブルで、いわゆる「パクリ」と言われるようなデザインを見て「あんな服、着ないでしょう。」と、僕のまわりのたいていの人はそう言うわけです。

それでもなんで「パクリ」がなくならないかというと、それをたくさんの人が買っているからでしょう。


この文章は「パクリ」をどうこう言うためのものではないのですが(それでも個人的な意見を言うと、パクリがだれかを幸せにしている以上、それをたんに否定してしまうのはちがう気がしています。)

僕のまわりのたいていの人たちというのは、やっぱり服が好きな人が多い。でも、世界には服なんてどうでもいいという人もいるし、服を着ることじたいが嫌いな人だっているかもしれない。いや、きっといるだろう。
そもそも、服を着ない民族だっているんだから。

一見知らない人とつながっているような気になってしまうSNSだって、それも自分が不快でない・つまり意見のすれちがいが起きないような世界を無意識につくっている。

そして、自分が心地よく過ごせるようにつくった世界で起こる「ふつう」を「みんなの意見」として捉えてしまうこと、これはとても危険なことであるように思う。

人と社会がある以上、世界的に多数をしめる「ふつうの人」と・その意見というのはたぶん存在していて、自分や自分のまわりにいる人たちの意見が「ふつうとは違うかもしれない」ことに気づくこと。

そして、できたら「違うこと」を理解しようとする懐の深さをもつこと。
いつのまにか「自分とそのまわりの世界」しか知らない人になってしまわないために。


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