「ダサいとわかっていること」も、のどもと過ぎるまでの辛抱である。


友人から数年ぶりに連絡があった。見慣れないアイコンがトーク画面のいちばん上に表示されている。おたがい東京に越してきたことは知っていたので、「ひさしぶりに会おう」とか、そういう連絡かと思ってひらいてみると、彼が働いているお店にお客さんとして来てほしい、という内容だった。

わざわざ言わなくてもわかると思うが、営業メールである。それも、数年ぶりの相手にも声をかけるくらいだから、あんまり余裕がないのかもしれない。どちらにせよ、「数年ぶりにきた連絡が営業メール」というのは、友人としてはなかなかつらいものである。

それから10分くらい後に、また別の友人から連絡がきた。どうやら、彼は他にも何人かにそんな内容のメッセージを送っているそうだ。「みんなからも、あんまり歓迎されていないようだ」という報告を受けて、僕もてきとうな言い訳だけ伝えて、結局彼の働いているお店にはいかなかった。


続けざまになつかしい友人から連絡がきたのもあって、しばらく見ていなかったフェイスブックをひらいてみた。すると、その友人が「お店に来て欲しい」という内容の投稿をずいぶん前から毎日かかさず続けていた。なんだか友人を自分のために利用しているように見えて、その姿はあんまり気分のいいものじゃあなかった。


それから数年が経った。また久しぶりにその友人から連絡が来た。メッセージをひらくと、今度は「久しぶりに会おう」という内容だった。ビールのグラスをかたむけながら近況を話しあっていると、どうやら仕事は順調のようで、こんど自分のお店を出すらしい。

そして、「あの時はすまなかった。」と彼はあやまってきた。「ダサいとはわかっていたけど、どうしてもたくさんの人に来てほしかった。おかげでこうして仕事を続けることができて、本当に感謝してる。」

そう話す今の彼を、ダサいという人はいるんだろうか。


-----------

続きはありませんが、今夜も美味しいビールが飲めるように、よろしければ投げ銭をお願いします。

 

ここから先は

0字

¥ 100

最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは今後の更新のために使用させていただきます。